存在していない
昔のカメラは被写体となる者はじっとしていないと写らなかった。
そんな不便なカメラで当時の公園を撮った古い古い写真がある。
広い公園には撮影当時じっとしていた人たちだけが僅かに数人写っている。
他に多くの人達もそこに確かにいたはずなのに、
何かをしていたはずなのに
友人同士で笑ったり
子供が走り回ったり
恋人達は愛を語り合ったりしていたはずなのに
後世に姿を残していくのはじっとして沈黙していた
人達だけだ。
本当は居たはずの人々が写っていない公園の写真。
単なる機械のハードウェアとしての性能の問題にすぎない
結果の産物なのに、なんだか人間の心模様ととても良く似ていて
不思議と心打たれるのはなぜだろう。
「存在していないじゃん」
と言われたことがある。
確かにそこに居たけど、その人の心象という
フィルムに自分は感光していなかったのだろう。
なるべく自分の存在や気配が残らないように気を使っている
こともあった。それは自分なりに周囲に気を使ってそうして
いる、むしろ苦渋の選択であった場合の方が多い。
「いつも存在していなかったよね、なんで?」
存在していない方が、その方がいいと判断したから。
存在していなかったのに、そのことをわざわざ指摘
して頂けることは申し訳ないと思わないこともなくはない。
もっともっと気配を消す必要があった。
努力が足りなかった。
「逆だろうが!!」
と言ってくれる人もいる。
そう。
存在していないことをツッコマれない程度には
存在していないといけなかったのだ。
そんな器用な事は昔は到底できず、
今もなかなか出来ない。
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