映画「仇討崇禅寺馬場」
「仇討崇禅寺馬場」
原題名: 仇討崇禅寺馬場
監督: マキノ雅弘
脚本: 依田義賢
撮影: 伊藤武夫
音楽: 鈴木静一
美術: 桂長四郎
編集: 宮本信太郎
疑闘: 足立伶二郎
出演: 大友柳太郎,千原しのぶ
時間: 93分 [モノクロ]
製作年: 1957年/日本
(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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藩の師範を勤める腕に自信のある武士(大友柳太郎)は御前試合で不本意な
形で負けてしまう。後日試合の相手と遭遇し、些細な事からその場で相手を斬っ
てしまい家を捨て姿を消す。斬られた相手の二人の兄は仇討ちをすることとなり
男を捜す。また逃げた男も正々堂々と真剣勝負をすることを強く望んでいた。
やがて三人は崇禅寺馬場で和尚の立会いの下で決着を着けることとなる。しかし
男は迂闊にも身を寄せていた宿の女主人(千原しのぶ)に事前にそのことを漏らして
しまう。男の身を按じた女は決闘の場所を必死で探し将にに三人の決戦の最中に
女とその手下が乱入して。。
オープニングの御前試合で画面一杯に描かれる平屋で横に長い日本
家屋がスクリーンの縦横比と調和して実に美しい。
最初は自分達から率先して仇討ちを希望していた斬られた
相手の二人の兄が周囲がその気になり引っ込みがつかなく
なって意気消沈していく様がとても丹念に描かれていてとても可笑しく
且つその描写と展開の確かさが安心して見ていられてやたら嬉しい。
実際に仇の男を捜しに出立する頃には相手の腕を知っているが故に
すっかりやる気をなくしている二人に対して兄弟のうちの一人を
見つけてやっと鬱屈が晴らせると自分から名乗り出て日程と
場所を意気揚々と決めていく男のやり取りの可笑しさ。
後半、自らの迂闊さから"男としての"生きる望みを絶たれ
前半の師範をも勤めた威厳もすっかり消えうせ狂気に墜ちていく
男の様も実にストーリーと演出と調和して見ごたえがある。
女は男を手に入れ満足し、男は生物として生きる以外の
『男の人生』を自分を惚れ抜いている目の前の女の手によって完全に奪われる。
そしてその発端はと言えばまさに男自身の身から出た錆。。
ほんの些細な迂闊さが最後の最後まで自分に"仇"となって
まるで自分を倒さんとするブーメランの如く男に飛んでくる業が
豊かな映像美と役者達の躍動感溢れる演技で素晴らしい
エンターティメントとなって終始描かれている。
完全に狂気に墜ちた男は三度果し合いをせんと崇禅寺馬場
に向かうが、、
全てが混乱のカオスの絶頂を迎えるラストは必見!
なんでこういう映画を今作ることが出来ないのかな。。
つくづく『映画』とはハッタリでは全然ダメで画面設計と
脚本と演出の堅実な積み重ねの上に成立することを思い知った。
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