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2009年2月 7日 (土)

 
  
 

酒をしこたま飲んで酔っ払い遂に神の化身となった男達は
村中を疾走する。

某地方の伝統行事を20年数年前の模様と今を比較しながら
テレビで紹介していたけど、

昔の映像は傍観している人々を巻き込んで
勝手に家に上がりこみ騒いで、そしてどの家にも囲炉裏などがあって

勇壮

という言葉がぴったりくるような光景だ。

21世紀の今の光景は何だか走っているオヤジ達は
そもそも酒が弱そうで体格も昔とくらべいまひとつ
貧弱になっている観が否めない。

これは祭りが祭りとして機能していた時代は
参加者のほとんどは農業で生計を立てていたという
つまり肉体を酷使して手に泥をして生きていたのに対し
現代はヨレヨレのスーツを着てデスクワークの
ような仕事に変わっているというところが根本にある。

農業に関る人間が圧倒的に少なくなった人間構成の村で
祭りのクライマックスでは"豊作"を祈願するのは
何だか滑稽にもなってしまう。

しかし"豊作"はつまるところ村の"発展"を願うことだから
そのように祈願すれば別に本質は変わらないから
別に問題はない。

参加者のリーダー格の中年男性が祭りが衰退していかない
ことを何とか願いたいと悲壮感も漂いつつも締めくくったが
今しばらくは他所に漏れず残念だがここの祭りも
衰退・後退の一途を辿ることだろう。

問題は後継者不足でも過疎化でもなく

祭りの形骸化

にあるように思える。

何をどうしてなぜ祀るのか。

参加している中堅以上の人々でさえ明らかに
判っていないように思えた。

しかしそんなことを指摘したところで

「そんなことどうでもいいんだ。さあ飲め飲め」

と言われるのがオチであろう。

まさにその態度こそが若者を村から去らせ
地域の産業や伝統が壊滅しても省みない悪しき
風土を作ってしまう遠因となっていることには
気が付いていない。

村や街の伝統が滅びることを憂いて必死で支えて
いるまさにその当事者達が皮肉なことにその根本的な
原因であるというパラドックスを往々にしてよく見る。

そもそも自分達は何を祀っているのか
酒を飲み謳うことはどういうことか
ここから見直せば、ベテランと呼ばれている人々であっても
修正しなければならないことが幾つも浮かびあがって
くるだろう。
ただの"飲んだくれオヤジ"にしか見えないと軽蔑して
敬遠していた人々もその態度を一変させ祭は復興して
地域の活性化にも路は開ける。

祭は、しかし排他的であって基本的には他所者や
新参者や女子供はご法度の場合が多い。

でもそのことそのものがすでに形骸化の始まりであって
"神"を文字通り神聖なものにしておくには
すべからく隠しほとんどの人間の目には触れない
ようにしなくては崇めてはもらえない。

排除された人間達は神に接触することを許された
ごく僅かの代理人達の振る舞いにありがたい神の
姿を想像する

神はどこにでもいて祭りもどこにでもある。
どの家庭にもどんな小さな集団にも。

祭りの形骸化はそれそのものが形式的な全てが決まった
動作でパラドックスそのものだから仕方ないが
「意味」をすっかりほとんど誰もが忘れたそれは
実に見ていて禍々しい。

滅びたくなくば
祭りの意味を一刻も早く問い直し
その目には見えない『何か』をもう一度祭りの
中心に置くことだ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

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