映画「戦艦ポチョムキン」
「戦艦ポチョムキン」
Бронено́сец Потёмкин
Bronenosets Potyomkin
Battleship Popemkin
原作: ニーナ=アガジャーノ・シュトコ
監督: セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
脚本: セルゲイ・エイゼンシュテイン
音楽: ニコライ・クリューコフ
撮影: エドゥアルド・ティッセ
編集: セルゲイ・エイゼンシュテイン
出演: アレクサンドル・アントーノフ,グレゴリー・アレクサンドロフ,ウラジミール・バルスキー
時間: 69分 (1時間9分)
製作年: 1925年/ソ連
(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)
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1905年に実際に起こったポチョムキン号の叛乱を題材にした後世に
多大な影響を与えた映画史上最も名高い作品の一つ。
革命のシンボルの一つとして、
プロパガンダ映画として、
叛乱20周年記念として映画化された。
政府軍が民衆に発砲する『オデッサの階段』のシーンはあまりにも有名。
高校時代から何度か断片的には観ていたが挫折数度。
今回初めて通して観た。本作は絶賛され尽く細部まで語られ尽くした観もあって
真っ白な気持ちと頭で観るのはちょっと難しい。
"戦艦"という閉ざされた空間の中で一度圧倒的多数の兵達が「意思」を持って
しまえば、その瞬間将校達は孤立し船は機能しなくなる。
過酷な練兵にも一糸乱れず従い軍艦が有機的に動くのは
兵士達への強制力が働いているからに他ならない。
蛆の湧いた肉を蛆ではないと詭弁を言い文句言わず黙って喰えと命じたことが
最終的なトリガーとなって叛乱は始まる。
強制力という磁力が消えた兵士達と将校達は数の関係から一気に
立場が逆転する。エイゼンシュタインは蜂起した一兵卒達の側の
視点を常に持ちながらもカメラ自体は遠目において包囲する側とされる側も
群集として同距離から描いている。
個を描くことはせず「人間達の行動そのもの」のダイナミズムさを
フィルムに納めようとする強い意志と時折インサートされる風景画のような
美しい構図と自然光によるシーン。戦艦の巨大さ・鋼鉄のイメージと
目まぐるしく動きまわるちっぽけな人間、足並みを揃え銃を構えて迫る
政府軍と散り散りに逃げる群衆の対比。
その視点は、黒澤映画にも共通するものを感じる。
余りにも名高いオデッサのシーンを始め群衆シーンはどれも圧巻の一言。
80年以上経った今でも素直に「一体どうやって撮ったのだろうか」と思う。
今、本作と同レベルの画面情報の映画が出来たら大変なことだろう。
世界中で話題になって大ヒットどころの話しではない。
作った人間は一生分稼げるだろうな(その人に利益が還元されればの話し)。
撮影された場所は大変な観光名所となるだろう。そう思うと本作は
やはり当たり前のことだけど80年後の今もってそうは作れる作品ではない。
というか無理だ。
映画って本当に不思議な芸術だ。
同等以上のツールがどんなに手に入ったところで技法を盗んだところで
オリジナルを越えるのはなぜか不可能に近い。
アキレスと亀のパラドックスのように近づこうとすればするだけ永久に辿り
着けないことがはっきりしてくる。
実際に起きた戦艦ポチョムキン号の叛乱は日露戦争の最中に起こっており
日本海海戦の調度一ヵ月後に起こっていることは注目していいだろう。
日露戦争における日本の文字通りの辛勝は帝政ロシアの屋台骨のぐらつきと
密接に関係があることをそろそろしっかりと把握すべき時だ。未来にまで
しっかりと自分の国を残すためにも。
本作のモティーフも本作の制作されたことそのものも、もう確実に歴史の
一ページとして同じように我々の前にある。
これからもたまに頭を真っ白にして観よう。
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