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2009年11月 2日 (月)

映画「人間の條件」(五)(六)

「人間の條件」
第五部: 死の脱出
第六部: 野の彷徨

監督: 小林正樹
脚本: 松山善三,小林正樹,稲垣公一
撮影: 宮島義勇
音楽: 木下忠司
美術: 平高主計
出演: 仲代達矢,岸田今日子,中村玉緒,笠智衆,高峰秀子

時間: 188分 (3時間28分)
製作年: 1961年/日本 松竹

(満足度:☆☆☆☆☆)(5個で満点)
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奇跡的に戦場を脱し満州の荒野を彷徨う中で梶は戦争が終わったことを知る。しかし、
一切の祖国である日本の援助が絶たれた中で遺された人々にとっては、戦争と同等
以上の過酷な地獄が待ち受けていた。全ての社会秩序・法が機能しなくなった中で
多くの「人間」が単なる獣に堕ちて行く様を梶は目撃する。。
第五部は、終戦という混沌と虚無の中に投げ出された人間達の地獄を。
第六部は、ソビエト軍に抑留された人間達の保身に狂うエゴイズム地獄を描く。

 第四部までは、梶を含めて主に現状の体制に疑問を持ち変革しようとする者に
とっての「人間の在り方」を問う展開であった。

 第五部・第六部では、その体制そのものが崩壊し、居合わせた全ての人々が
「人間の条件」を否応無しに精神の根本から問われることになる。

 第六部は、ソビエト軍に抑留された人々がどうなったか正面から描かれる
邦画史においても異質な展開でこれまでの群像劇よりも主人公の梶を演じる仲代達矢
の一人芝居を観ているかのようであり独立した部の趣きが強い。

 そういう意味で、『戦争が終わったこと』がいいのか悪いのか観ていて判ら
なくなる
ような、戦争さえ無くなればそれでいいのかという監督の大いなる問い
が聞こえてくるような、秩序を失った人間達の自己保身からとはいえその恐るべき
暴力性を描き切る第五部が超大作「人間の條件」の本編と言えるのかもしれない。

 家族を、親を、子供を、見捨てる男、女。

 命の安全の保障と引換えに体を要求する男達。

 戦争が終わっても軍隊の秩序をあくまで強制し離脱を許さない上官。

 「奪う」ことが出来ずに奪われるままに全てを失い息絶えていく少女、少年、赤子、
老人、全ての弱達者。。

 小林正樹は、第三部・四部では国家間が起す戦争の道具である軍隊の必要悪として
秩序至上主義に染まれない、または、異議を唱える人間達に同情的な視点を持ち
合わせながら、第六部では、ソビエト社会主義体制の表層と内実が一致しない胡散臭さ
をも冷徹に描写している。1961年という製作年と当時の社会背景を考えて、莫大な制作
費が投じられたであろう本作の規模をも考えてみるとこの視点の見事なまでのバランス
とクオリティの高さはどこまでも賞賛に値し驚くべきことだと思う。

 映画として冷静に見ると第一部・二部で鮮やかで圧倒的な大陸感、風景のスケール感
というものは第五部では予算的な限界も勿論あるだろうが明らかに日本の某所で撮影
されたであろう雰囲気が出てしまっている感は否めない。それでも第五部、第六部では
タイトルにもなっている物語のテーマそのものが延々と主人公梶によって語られ梶の
眼を通して描写されるのでそれほど気にもならないが。

 笠智衆と高峰秀子は、第五部において問題提起せざるを得ない役を演じているが
彼らが演じたことを論じても今となっては何ら意味はなく、"国"の"民"であることに
意味を見出せなくなった人々の行動を解釈を持たせずにただひたすらに観客の前に
提示し続ける監督の気迫にはただ圧倒されるしかない。

 第六部では、「人間」として生きるには過酷すぎる粗末極まる衣食住を与えられただけ
で重労働に従事される「箱の中」に押し込められた人間達同士の、外部の者の目には
見えない頑強なヒエラルキーの中で虫けら同然の扱いを受ける「人間」とそれを同胞で
あろうと戦友であろうと黙認するだけの「人間」をカメラは捉え続ける。

 病人が最低限度の休養を摂る事や生きるのに必要な最低限度の防寒具を自前で
調達していい許可を粘り強く要求していく梶に対してソビエト軍は党の顔色を常に伺い
ながらのらりくらりと要求をかわすか先延ばししていく。

 戦争が終われば、その瞬間に消滅していいはずのヒエラルキーが卑怯者達の手で
温存され「戦争である」という建前を失ったその強制力は透明だが殺傷能力充分な
凶器として"箱"の中を飛び回り狡猾に避ける事の出来ない「人間」に襲いかかる。
そして、その凶器に斃されることは全くの犬死でしかない。

 戦争という国家間が認識する敵ではなく同胞達の単なる保身によって一つの命が
奪われた時、梶の怒りは頂点に達した。その怒りは初めて"個人"に向けられることと
なった。梶の眼を通して描かれてきた幾多の「人間の條件」の中に梶もまた埋没して
いつしかその濁流に呑み込まれていく。

 闘い続け、やがて疲れ果てた梶が思うことはたった一つだった。

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戦争という巨悪の前に、いかに自らの信念を貫き通そうと悪戦苦闘しても、
所詮梶は日本軍国主義の手先である。だから、逡巡を続けるだけで煮えきらず、
結局は、敗れ去るしかない。その敗走の見苦しい有様を、小林正樹は冷徹に
観察する。心情的加担も革命的帰結もなしに、崩壊の一部始終を凝視する。
その意味で、小林正樹は「誠実な善意の人」ではない。血みどろで野垂うち廻る
人間に対し、一片の同情なしに解剖するような鋭利な眼差しをもった「悪党」で
ある。そして、そうした「悪党」にしか、本当の人間は描けないと私は信じている。 

佐藤 真 (映画監督)
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[NFC ニューズレター第31号より]

 『映画』は恐らくは悪党にしか作れない。そして悪党共が映画を作れない社会は
ただの無でしかない。そこには平和などは無く戦争をして奪い合う価値すらもない
だたの『無』があるだけだ。それは、もしかしたら小津安二郎の求めた究極の無の
対極にある概念なのかもしれない。

 全六部、567分。本作を観るのに必要な約9時間半という時間は、きっと、生きていく
上で有益な時間となることであろう。

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人間の條件」(一)(二)(1959)
人間の條件」(三)(四)(1959)
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コメント

全6部見終わりました
予算の関連もあるのか
なんか尻すぼみな感じでしたね
 
特に6部はつまらんかったです
 
>ソビエト軍に抑留された人々がどうなったか正面から描かれる
と言っても
日本人の経営する収容所からしたら、かなり良い感じに描かれていた気がします
 
>社会主義体制の表層と内実が一致しない胡散臭さ
と言っても
「理想の国でも末端には分かってない人がいる」程度の扱いなんで
基本、ソ連はユートピアみたいな扱いでしたね
 
ソ連収容所で暴力振るうのが日本人将校だけってのもウソくさ過ぎる
 
まぁこれが
当時の限界なのかもしれませんけど
 
ラストも安直でガッカリでした

投稿: 万物創造房店主 | 2011年8月21日 (日) 15時35分

>予算の関連もあるのか
>なんか尻すぼみな感じでしたね
 
"予算の関連"でしょうね。
私は一部・二部の撮影の規模と効果の素晴らしさ
から「最後までこれで持つのろうか。。」と勝手に
心配していましたので後半の国内ロケの感じは
仕方無いかなと思いました。製作側も前半の
開けた感じの素晴らしさは想定外だったんじゃない
すかね。

 
>かなり良い感じに描かれていた気がします
 
そうですか。。
自分は劣悪な環境と日本の軍隊の
"見えないヒエラルキー"の故意と思われる放置とか
実際にそうだったんだろうなという印象は持って
それなりに告発されているのではと思って見ました。
「自分だったらやってれらんなーこれは」
と。一刻も早く日本に帰りたいと思いましたね。
観ていて。
 
まあ相手のソビエト側の人々は劣悪な環境を
放置しているのに変に物分かりがいいというのは
矛盾であり偏向した描写ではありますね。
 
 
>まぁこれが
>当時の限界なのかもしれませんけど 
 
1960年代初頭の日本自体がすでに相当に
毒されていて左天国極楽神様仏様思想は
しこたま入っていたと思いますから良くやった方
だと思いますよ。後半のショボさも6部の描写も
変な外部圧力もあった結果ではないでしょうか。
 

>ラストも安直でガッカリでした
 
私はあれで良かったと思います。
あれ以上続いても意見が分かれるだけだし。
一部からの展開を思うと充分に虚無感も出ているし
個人的には充分に及第点の作品。
後続の人間がさらにスゲー作品を作ればいいだけ
の話ですね。
 
頑張れ!!日本の映画人よ!!

投稿: kuroneko | 2011年8月22日 (月) 01時22分

>良くやった方だと思いますよ。
まぁ時代から考えれば
そうですよね
 
>あれ以上続いても意見が分かれるだけだし。
僕は饅頭一個のために人殺しをするぐらいまで落ちてほしかったです

投稿: 万物創造房店主 | 2011年8月22日 (月) 16時01分

>僕は饅頭一個のために人殺しを
>するぐらいまで落ちてほしかったです
  
それでこそ
「人間の條件」
ですよね(^^;)
 
私は最後で私闘に燃えて若者を死に
至らしめた男を糞塗れにさせてくれて
充分"良かった"と思いました。(^^)
後半はデカプーがデカプーであるが如く
仲代達矢が仲代達矢しちゃっているのも
ちょっと残念でしたが。

投稿: kuroneko | 2011年8月23日 (火) 00時33分

>至らしめた男を糞塗れにさせてくれて充分"良かった"
あれはカタルシス的なよさがありますね
とても気持ちよい
ただ主題的には何か違った方向な気がしました・・・

投稿: 万物創造房店主 | 2011年8月23日 (火) 15時08分

>カタルシス的なよさがありますね
 
ありますねー( ̄▽ ̄)
「任侠ロジック」入ってましたね。
あそこは。
耐えて、(ーー)
耐えて耐えて、、(ーー;)
耐え偲んで、、、(ーー;;)
ぶっ殺す!!(゚д゚)凸

みたいな。
 
>ただ主題的には何か違った方向な気が
 
私は流れとしては割りとシックリきて観てました。
 
人間として、
国家事業に服する義務と責任(一部)
人間として、
異人種への偏見の克服(二部・三部)
人間として、
戦争への加担そして破滅(四部)
人間として、
秩序の崩壊後のサバイバル(五部)
そして、
人間として、、
怒りの許容の限界とその発露(六部)
 
国家・戦争
という何十万何百万人の運命が左右する
大きな世界をずっと描いてきたから
最後の六部のさらに最後に来ての人間関係の
最小単位の1VS1の"私闘"(タイマン)は
バランス(?)は悪くなかったと思います(^-^;)
 
チェーンで
オラ、オラオラオラアア!!(゚д゚メ)って
"萌え"ました。( ̄∇ ̄)

投稿: kuroneko | 2011年8月24日 (水) 02時03分

>最小単位の1VS1の"私闘"(タイマン)は
僕の中ではチェーンでタイマン勝負というとコレ↓なんで
http://4.bp.blogspot.com/-ILzlr8kxFbU/Th84owIk7vI/AAAAAAAABFE/NG2r0joU5tk/s1600/taiman.jpg
えーそこへ行っちゃうのーって感じでした
 
あくまでもイメージの問題なんですけど
「任侠ロジック」なカタルシスで観客を喜ばせる映画じゃなかったはずー、もっと深かったはずーとか思っちゃうんですよ

投稿: 万物創造房店主 | 2011年8月25日 (木) 14時40分

>タイマン勝負というとコレ
 
か、カッコイー
観たいですねー\(^。^)/
オラオラされたい(≧∇≦)
 
>もっと深かったはず
 
そうですね。正論だと思います。
私は『人間』というものは結局は、
集団が先ではなくて個人が先にあると
思って生きているのでスンナリ
受け入れて観たのかもしれません。
 
仲代達也演じる梶が後半どんどん
"超人"になってきてしまっているのは
辛口で言うと失敗なのかもしれません。

投稿: kuroneko | 2011年8月26日 (金) 01時45分

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