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2010年12月 9日 (木)

映画「村八分」

2009年に見た映画(158) 「村八分」

原題名: 村八分
監督: 吉村公三郎,今泉善珠
脚本: 新藤兼人
撮影: 宮島義勇
音楽: 伊福部昭
出演: 山村聰,中原早苗,乙羽信子,日高澄子
時間: 94分 (1時間34分)
製作年: 1953年/日本 北星

2009年 10月鑑賞
(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)

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村の選挙の不正を投書して暴露した16歳の少女と、その家族が
"村八分"にされ少女の一家は孤立して追い詰められていく。

 

作品全体の出来も、テーマも、骨太の超大作「夜明け前」(1953)の
吉村公三郎(監督)と宮島義勇(撮影)の強力タッグによる作品なので、
映像は当然のように素晴らしく、演出も堅実で中盤まで目が離せないが
終盤に腰砕けになってしまった感があるのは、今泉善珠の初監督作品
であるという理由で吉村公三郎が部分的に今泉善珠に花を持たせようと
遠慮してしまったからなのか、単に脚本の問題なのか、興味深いところだ。

互いに複雑に見えない糸で絡み合って日々協力し合い、基幹産業が
農業で成り立っている田舎では、「協力」とは真逆のことを周囲が
一致団結して申し合わせて徹底されてしまっては生きていくことは難しい。
吉村の演出は、村八分を行使する人間達の

「"本意ではない"が他人の眼を気にして行使せざるを得ない」

心のドミノ現象を刻銘に捉えていて素晴らしい演出をしているが、その
村八分の"克服方法"は恒久的な解決を見ないことが今日では明らかに
なった「思想を同じくする人間達の圧力」に持っていってしまたのは
観ていて甚だ残念であったが、本作が製作された時代的には仕方が
無いともいえる展開である。吉村公三郎の単独の監督作品で
あったならば、本作の結末は有りえなかったように思うがどうだろうか。

中盤までの、孤立していく一家と本意でないが結果として一家の孤立の
加速に加担してしまう集落の人間達や少女の精神的状況を理解できない
無神経な教師たちの自然且つ刻銘な描写を積み上げ実に力強い展開だった
にも関らず、戦争を忘れて始めた時代の強力なバイアスにかけられた?
本作の評価が恐らくは微妙だったことは今泉善珠のフィルモグラフィーが
本作の後で花開かなかったことと無関係ではないのではなかろうか。

監督が二人体制の作品としては、例えば二・二六事件を描いた秀作
「叛乱」 (1954)がある。「叛乱」における監督の二人体制の理由は純粋に
佐分利信が病気で倒れて安部豊がピンチヒッターになったというものらしいが
その全体の統一感が評価されたほどに監督が一人ではないという
ことは映画の製作現場においては致命的なことといえる。体(作品)は
一個で脳味噌は二つということになってしまうのと同じであろうか。

主人公の女子高校生を演じる中原早苗はかの深作欣二の伴侶となる
人である。本作当時は設定とほぼ同じ年齢でとても初々しくて村八分に
挫けない少女を好演している。が、20年後の作品の「修羅雪姫」(1973)
では修羅雪姫に見事にぶった斬られる悪役オバハンと化している。

映画とは、実に美しく、実に残酷である。成功する者も失敗する者も
富を得る者も失う者も、最後には等しく時代の彼方に放逐していく。

   

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