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2011年1月16日 (日)

映画「ミカドロイド」

2009年に見た映画(161) 「ミカドロイド」

原題名: ミカドロイド
監督: 原口智生
脚本: 武上純希,原口智生
出演: 吉田友紀,渥美博,伊武雅刀,洞口依子,毒蝮三太夫,黒沢清
時間: 73分 (1時間13分)
製作年: 1991年/日本 東宝

2009年 11月鑑賞
(満足度:☆☆)(5個で満点)

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太平洋戦争末期に極秘に開発された人間を不死化して装甲で覆った
究極兵器「ジンラ號 」は突如として現代に甦った。ジンラ號の殺戮行為を
阻止するために立ち向かったのは同じく人型兵器となる運命の"はず"だった
不死化された男達だった。。

 

高校生の頃、何気なく本作のビデオパッケージを観て、その禍々しさに
戦慄したのを覚えている。機動性の極めて低そうな装甲を全身に纏い
日本刀を振り上げながら不恰好に歩き向かってくる様は将に大日本帝国の
終焉そのもの思わせるような怪しさに満ちていた。タイトルも実に恐ろしい。
「ミカドロイド」である。何てイデオロギー性の高い名詞なんだろう。このタイトルと
無様なロボットと生身の人間を"材料"に使っているという設定だけでもう
想像して"苦しむ"だけで充分で作品自体を観る必要はなく時は流れた。
戦況の悪化と混乱の中で破棄され忘れ去られた「ジンラ號 」(正式名称:
百二十四式特殊装甲兵ジンラ號)そのままに、、

時は経ち、数年前に中古ビデオ屋で我が思い出の「ミカドロイド」を見かけ
即購入。最早観る気もそれほどなくパッケージ買い。この度、とうとう
劇場で観る機会に恵まれ作品そのものとではなく、自分自身の過去との
小さな"ケリ"を着けるために鑑賞と相成った。←大袈裟。

スケール感の無いとても残念な作品であった。最も残念であったのは
「ミカドロイド」というオドロオドロしい傑作なタイトル、肉体的にも精神的にも
鍛え上げた兵士を"改造"し"生ける兵器"と化して陛下を日本を最後の最後
までお守りする(=徹頭徹尾抗戦する)という"使命"を帯びた哀しい"特攻兵器"
の末路が描かれることを期待したけど"映画作りゴッコ"を楽しむ愛好会の
乗り以上のものは何一つなかった。本気で作っていないという意味では
全く逆の意味で"不敬である"と言っていいのかもしれない。遭遇する人間を
見境なく血祭りに挙げていくわけだが、例えば同じ同胞(日本人)であっても
センサーで愛国心があるかどうか見抜いてその上で物質至上主義に浸る
バブリーな時代を生きる若者を"国賊"(=敵)と認定した上で攻撃するとか
B級映画ならB級らしく失笑上等のハードルの低いそれゆえにメジャー作品
では決して言えない主張を幾らでも盛り込むことが出来たはずなのに
自分たち自身をどこまでも矮小化してしまっている。自分たちが作り上げた
極めて問題のある、どこまでも虚構でありながらどこまでも虚構であるが
故に『本当のこと』を言ってしまえる自由を得たプロットを作りながらも
「所詮は絵空事でございます」と自分たちで最初に宣言してしまっているのは
何としても残念なことであった。

二番目に残念だったのは画面構成が極めて"平面的"であり場面展開
の方法論「アニメ」の作り方になってしまっていることである。これは脚本を
担当している武上純希がアニメや特撮畑でしか仕事をしていない人間で
あるということを知って実に納得な結果である。実写ではやってはいけない、
避けなくてはならないバイオレーションを尽く"やってしまって"いる。
アニメーションと実写では観ている人間の脳内で考えているシーンごとの
"間"が決定的に異なるのであり描かれている"全て"が"絵"でありフィルム
の上に置かれているに過ぎないアニメーションであれば許されることも
リアルに小道具・大道具を作成して生身の人間に喋らせアクションをさせる
実写において"アニメ"のルールを持ち込んでしまうと観客は全シーンに
言いしれようのないストレスを感じてしまう。アニメの世界は根本的に"省略"
の世界であるから眼前で触れられない点においては存在しないのか、
何なのか観客はその一切を問わないという作り手側のアドバンテージが
存在し、実写においてはそんなものは存在しない。どんなにチープな作品
であってもシーンからシーンに飛んで時間や場所がジャンプする時には
その間に物語がどうなっているか(いたか)は破綻していようが何だろうが
一応の設定がなくてはいけない。本作はアニメを作るような"乗り"で場面
構成がされているので、その矛盾を全て観客が引き受けねばならず
製作スタッフの贔屓でもファンでも何でもない人間は観ていて大変なストレス
を終始感じてしまう。

本作をそのまま一切何も変更しないでアニメ化しただけで何だかよく
わからないけど"面白そうな作品"に見事なまにでなってしまう。
もしかしたらどこかの映画祭で賞を取ってしまうかと思えるほどに。
しかし本作はそれを逆手に取ってアニメの手法を実写に持ち込んだ作品では
全くないところが大きな問題であり勉強不足の点は否めない。作り手側は
どこまでも"確信犯"でなくてはならない。

本作製作から20年が経過しており、カメオ出演したり製作スタッフとして
関っている人間達は今は年齢的な点だけでいえば邦画界の中心と
なるべき存在であり、時折某組織から資金を調達されて映画を作って
みるものの業界内や仲間内、ファン同士で褒めあっているだけで
一般層からは何度作ってみても評価されないのはどうしても最初から
"言い訳"する癖があるからではなかろうか。

クライマックスの絵的にはファンタジー性の高い展開も友人でも知人
でもない人間のプライベートフィルムを観るためのパーティーにお宅に
お邪魔してしまったような壮絶なまでの居心地の悪さがあった。
そう"オタク"ゆえに。

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コメント

あ、コレ、ビデオで買って持ってます
例によってまだ見てないですけど
 
思った通り
やはりハズレでしたか
日本人はこういうのヘタですね
なかなか遥か彼方までブチ切れた感じが出せない

投稿: 万物創造房店主 | 2011年2月 9日 (水) 16時41分

駄作だと判った上で友達同士で
馬鹿騒ぎしながら好きな音楽でも
ガンガンかけて観るのはそこそこ
楽しいかもです。プロット自体は
悪くなく、むしろ優れているので
リメイクされる可能性はかなり高いのでは。
だもんで権利買い取って好き勝手に
演出してみたい衝動に駆られました。
( ̄ー+ ̄)

投稿: kuroneko | 2011年2月10日 (木) 00時20分

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