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2011年2月12日 (土)

映画「ぼくら、20世紀の子供たち」

2009年に見た映画(164) 「ぼくら、20世紀の子供たち」

原題名: Nous Les Enfants du Xxeme Siecle
監督: ヴィターリー・カネフスキー
時間: 84分 (1時間24分)
製作年: 1994年/フランス・ロシア

2009年 11月鑑賞
(満足度:☆☆☆☆☆)(5個で満点)

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監督のヴィターリー・カネフスキーはソビエト連邦崩壊後の国内で逞しく生きる
ストリート・チルドレン達にインタビューをして彼等の生活の様子を取材していく。
子供達が街に出て路上で生きいかなくてはならない理由のほとんどは、親達の
生活の破綻と、教育の放棄に等しい意識の貧しさに起因していた。カメラはやがて
犯罪を犯した青年達を収監する施設へと移る。そこには、ほんの数年前に
ある炭鉱の街で生きるワレルカという名の少年を活き活きと演じた一人の青年が
いた。。ヴィターリー・カネフスキーによる"大人になる前の彷徨える美しい
魂達"を描いた最終章。

 

前二作において自らの少年時代に培ったイメージをワレルカという少年に託し、
同時にガリーヤ、ワーリャといった天使を創造して描いたヴィターリー・カネフスキーは
カメラを持って、実際の"この世界で生きる"ワレルカ達を探しに出かけた。
彼等に時に優しく、時に親のように辛辣なまでに率直な問いかけをぶつけて
カネフスキーは"彼等"と対話を試みる。カネフスキーの質問に明るく答える
少年・少女達の親はその尽くがアル中で子供たちに暴力を揮うことや犯罪を奨励
することすら厭わない種類の人間だった。少年・少女達は親から避難して
路上に逃げてきているのであり、それゆえに多くはやがて法を犯すしかなく、
当然のように自己正当化する。その日の食糧を得るための窃盗から、10歳も
越えれば金品を強奪しての豊かな生活(!)を維持するギャングの卵になってしまう。
国家権力側は、そんな彼等を容赦なく犯罪者として扱い刑務所に送っていく。
カネフスキーは彼等をどこか温かく見つめつつも社会システム全体の欠陥の
深刻さゆえに安易な同情の目は向けようとはしない。

非行少年達は自分たちの愚行の全てをひたすら大人達と社会のせいにして
(実際にそうではあるが)犯罪行為を正当化する少年達であるが、彼等は
等しく孤独を酷く恐れ異口同音に「仲間を裏切らないこと"だけ"は守る」と主張する
姿がとても強く印象に残る。親から愛を受けることができずに、教育システム
からも結果的に外れて、世間に疎まれ、そのことで傷つき、より一層社会への
増悪と親(=社会)への復讐が凶悪な犯罪へと走らせる救いようの無いスパイラル
の中「仲間を裏切る」=「仲間のいない」ことすらも認めてしまえば、最早自分達は
動物ですらもない
ということを彼等はよく自覚しているのだろう。
「晩御飯はどうしているのか?」というカネフスキーの問いかけに最初は勇んで
自分たちの"隠れ家"に案内して盛んに自己正当化の言葉を叫んでみせるものの
盗んだ食料品を調理もせずに食べていることをカメラに撮られていることを冷静に
理解すると急に静かになりどこかに逃げ散ってしまうその姿は憐れだ。彼等は
心の底では哀しくて惨めであるが、それを理解して救済してくる人などいるはずも
なく、すぐに大人になり多くは子供を作り、なす術もなく酒に溺れて子供たちに
手をかけるしかないだろう。かつて自分たちがされたことを繰り返していると判っ
ても自制心を培うことをしてこなかった彼等に自身を止めることは出来ないだろう。

取材を続けるカネフスキーは、罪を犯して収容されている"ワレルカ"
を演じたパーヴェル・ナザーロフに出会う。重たい沈黙が二人を包む。

「私を恨んでいるかい?」カネフスキーは青年に尋ねる。

「いや」ナザーロフは答える。再び沈黙。

「映画を撮る企画が進んでいるが、出演する気はあるか?」
カネフスキーが尋ねるとナザーロフは即答する。

「あるよ。シナリオは完成しているのか?」

ナザーロフは自分の現在の境遇を何かのせいに責任転嫁することもなく
これまでも、これからも「なるようになる」とカメラに向かって極めて冷静に
語り、同じく親を惨殺して収容されている同世代の女性とふざけて踊り始める。

そしてほどなくナザーロフと前二作で共演したディナーラ・ドロカーロフが
施設を訪れ二人は"再会"を果たす。それは古今東西のどんな傑作にも
劣らない劇的で美しくて官能的ですらある。

ヴィターリー・カネフスキーは、 
「動くな、死ね、甦れ!」(1989)、
「ひとりで生きる」(1992)、そしてこの
「ぼくら、20世紀の子供たち」(1994)
をほとんど唯一のキャリアとして作品を発表することを止めてしまうが
"この世界の若者の全て"はこれらの三部作に描ききってしまってると
言ってよいし、大人の世界は夢も希望も無い略奪を陰に陽に肯定し合う
禄でもない世界なわけだから氏が沈黙したのは当然のことのように思う。
カメラに収めるべき価値のある"全て"をカネフスキーは余すことなく
しかも手順を誤ることなく納めきった。

ロシアの広大な大地では国家も、人もある意味等価であり、等価であるが
ゆえに国家は人の行為に対して一切の責任を取る気は最初からない。
国家も人も相等しく"生きる"こと、自己正当化に浸ることに必死だ。
我々日本人の価値感とはどこかで根本的に大きく異なる。システムと
個人との谷間に堕ちてしまう恐怖と隣り合わせの中で時に人間のある
肯定すべき面が光輝く世界と、過剰なまでにシームレスであるがゆえに
発狂したくなるほどに息苦しい代償として能面のように生きねばならない
世界とどっちがいいかと言われれば、世界全体に及ぼす"被害"を考えれば
後者の方が良いように想う。

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