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2011年2月13日 (日)

映画「宮本武蔵 二刀流開眼」

2009年に見た映画(165) 「宮本武蔵 二刀流開眼」

原題名: 宮本武蔵 二刀流開眼
監督: 内田吐夢
音楽: 小杉太一郎
撮影: 吉田貞次
美術: 鈴木孝俊
出演: 中村錦之助,高倉健,平幹二朗,入江若葉,木村功,丘さとみ
時間: 104分 (1時間44分)
製作年: 1963年/日本 東映

2009年11月鑑賞
(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)

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弟子の城太郎を引き連れ剣の道を究める旅を続ける武蔵。
宿敵佐々木小次郎の登場と吉岡清十郎との決闘。
内田吐夢による「宮本武蔵」 五部作の第三作。

 

最終作の第五作はまだ未見であるがこれまで観てきた第一部から第四部
までの中では画面全体の一体感というか作りの出来は一番ではないかと
思う。美術担当の鈴木孝俊は五作全てに関っているが、撮影の吉田貞次は
本作からの参加。柳生家での門弟達に囲まれた武蔵が初めて二刀共に
抜いて構える場面のセットと照明の光のバランスがとても美しい。
60年代半ばまでの邦画の作品の多くは、俳優の演技以外にもカメラの動きや
セットの作り、脇役達の動き、それらをコントロールする監督の意図の推測
など完成した画面を自分勝手に項目を分けて分解する楽しみのような
ものがあったが、70年代に向かっていくと技は受け継がれなくなり急速に
画面は力を失っていくように感じる。そして80年代に入ると邦画は衰退は
誰の目にも明らかになりバブル崩壊より一足早く邦画界は斜陽を向える。

内田吐夢の作品を観るといつも思うのは、『映画』が目に見える画像の
2次元的世界だけではなく、その画面の向こうで動く数多くの優秀なスタッフの
才能と熱意が"厚み"を持って見えるようで画面を"横"から見るとその
厚みがしかと見えるかのような"本当の意味での"映画そのものの3次元性
を感じることである。クライマックスにおける吉岡清十郎の無様な姿は、
単なる敗者ではなく、その無様な姿を敢えて庶民に晒す、吉岡一門の名声
が地に堕ちることを風聞に任せず己の情けない姿を見せることで試合に
負けたに過ぎないことを誇示しようとする吉岡清十郎を正面から捉える
ことで、観客は「宮本武蔵」の世界が武蔵を中心に回っているわけでは
ないというリアリティを堪能することが出来、自分達の感情を登場する人物の
所作やシーンの細かなところに自分の気持ちを"預けて"溜飲を下げることが
出来る。監督はスタッフの才能と叡智を"吸い上げる"棟梁の立場であり、さらに
そこに自分の人生観や志を密かに、あるいは公然と盛り込むわけだが
その結果は自ずと"この世界"の何事かを如実に映す"鏡"となる。時代が進む
につれなぜそういったことが出来なくなっていくかと言えば、映画監督を始め
とするスタッフや俳優に「この世界を表現をしてやる」という意気込みが失われ
たんなる仕事であり報酬や名声を得る為の手段に過ぎなくなっていくから
であろう。

渡世人として"開眼"する前の30代前半の健さんの冗舌な佐々木小次郎が
とても新鮮で今となっては大きな見所の一つといえる。 

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