観_11_05_25
都内某所で映画を観る。
ここ数日、体調がようやく戻ってくる。
某所での映画鑑賞はまあまあ久しぶり。
電車での行き方を失念する。
観たのは1930年代のロシア映画。
これまで観たロシア映画の中でも突出してロシア映画っぽくなくて
実に新鮮だった。また後半においてはイエジー・スコリモフスキーっ
ぽさを感じたり、どことなくフェリーニ作品の匂いもしたり。こちらが
先であるから後世の天才達に影響を与えていることも充分に考えられる。
作品自体は優れていたが中盤以降は観続けるのが
かなり辛くて早く終わって欲しいと切実に願いつつの鑑賞。
なぜ辛かったかと言えば、作品の展開自体には精緻な?理論を
散りばめながらも多分に実験的な思考の重積により社会システムの
方向性を模索しようという意気込みと希望が確かにあって、
ひるがえって我々の置かれている現状はその真逆できちんと
生活基盤もあり僅かながらも希望を持って生きようとしているのに
それを日々毟り取られている実感があるからだと思う。過去に逃避
しなければ気が狂ってしまいそうな最悪な日常の中で未来への希望を
立体的に描いた映画を観るのが辛かったのだと思う。周囲の人々も
何となく辛そうであったが気のせいか。
1929年代、30年代の映画作品の多くが西欧も東欧も極東も
"厚くて底もしっかりしている"気がいつもする。「その後」に
巨大な何かが折れてしまったまま、一向に回復しないままの、
ただ減衰するだけの世界を我々は生きているのではなかろうか。
明日もどうにかこうにか、生きる。
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