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2011年7月21日 (木)

映画「十六歳の戦争」

「十六歳の戦争」

監督: 松本俊夫
美術: 大谷和正
音楽: 下田逸郎
出演: 下田逸郎,秋吉久美子,嵯峨三智子,佐々木孝丸,ケーシー高峰
時間: 94分 (1時間34分)

製作年: 1976年/日本 サンオフィス
(満足度:☆☆☆☆☆)(5個で満点)
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彼女が身篭ったことをきっかけにして鞄一つ身一つで旅に出た男(下田逸郎)は、
立ち寄った街の河原で心中自殺した遺体を見る。そこで出会った十六歳の少女
(秋吉久美子)に誘われるままに男は少女の実家に逗留を続け、やがて自らの
ルーツと向き合うことになる。。

 

 愛知県豊川市に戦時中に実在した軍需工場への大型爆撃機B29による爆撃に
より犠牲になった少女達を"慰霊すること"を目的の一つとして、地方自治体が
出資して製作されたという異色の資本ルートによる本作は通常の興行作品とは
分けて存在すべき作品であるが、そういった事情は観ていてほとんど気にならず
("その手"の作品が放つ超独特の率直に言って忌むべき香りがほぼ無く)、
素晴らしくエンターティメント性の高い輝きを放つ逸品で、大変楽しめたことに
まずは大きな拍手を送りたい

 オープニングの、全くもってどうってことのない全国のどこにでもあるであろう
地方の二車線道路を正面から捉えた夜明け直前のシーンが、個人的にまずは
"ツボ"で、中・高・浪・大学時代の、要するに10代全部と20代半ばまでのメランコリーな
日々、独りで、友人とで何も考えずにただ喋ってただ歩いた日々が鮮やかに甦った。

 この作品が記念すべき映画初出演という秋吉久美子は十六歳の少女を初々しく、
且つ"エロく"演じているけどもタイトルとテーマと脚本がしっかりと一貫性があるので
初々しさもエロさも全く後ろめたくなく楽しく鑑賞できるのは何気に映画として一つの
越えなければならない(且つ公的資金が投入されるとまずは作品的にダメに
なる部分)ハードルを軽やかに越えているのはかなりの賞賛に値すると思う。

 役柄通り十六歳に見えるけど、もし実年齢もそうであれあ完全にアウトのシーンが
あるけど単純計算上は製作当時(製作は1973年)は彼女は十九歳なので
その点も計算でクリアーしているとすれば製作者サイドはなかなかに強かである。

 主演の若者を演じる下田逸郎は詳しくは知らないが本職の役者ではないようだが
抑制の効いた演技で、最初から最後まで大きな破綻がないのがなかなか観ていて
好感を持った。役者っぽくないし実際に役者ではない(しかし下手ではない)のが
前半はありがちな?青春映画の様相を取りながら戦後生まれの青年や少女達を
通して後半は戦後の日本の欺瞞にも鋭く迫ろうとする勢いある展開がとても自然な
感じが出ていて「良い」。

 母親になろうとする彼女の前からさっさと逃げ出し、年下の美しい少女に素直に
惹かれていく普通の青年を下田逸郎はかなり驚きの自然さで演じている。自然に
演じることそのものが実は大変なセンスと訓練がいあるからこそ『俳優』という
職業が存在し、養成所も存在するわけである。

 物語の前半は、社会の歯車の一つになることから逃げ出した青二才と、年齢が
年齢だけに仕方がないお年頃の不思議ちゃんとの美しいまでの他愛無い邂逅の
シーンが続くが、主人公の青年が終戦の年の昭和20年に生まれたことと少女が
執拗なまでに自分の親達に向ける自分の出生への疑問と、少女の母親が
昭和20年に十六歳だったことでドラマは単なる親の世代への反抗から太平洋戦
争末期から戦後への180°のシフトを、人心を置き去りにして強行してその
総括もおざなりにした国家システムの欺瞞
を暴いていく。

 本作がなかなか脚本として巧みなのは、前半からさりげなく豊川海軍工廠に関する
固有名詞と事件的な背景をちりばめながら主要な登場人物達にはそれぞれ別個に
終戦からの日本人の戦中・戦後の各世代の代表的なメタファーを上手く"型"として
盛り込んで描いていることだろう。

 少女の父親(多分"本当の父親"ではない)は太平洋戦争中から成人していた
世代であり、したがって、戦争の遂行目的自体を本心からは信じておらず
戦争が終われば自分の生きる術を"軍事方面"からさっさと"平和産業"に転換して
富と地位を築いた男だ。

 少女の母親は戦争末期には未成年であり、戦後を生き抜くにはなりふり構わずに
自分の衣食住を満たしてくれる"人"と"組織"に包まれているしか術はなかった

 叔父と称する少女の家に棲むファナティックな中年(ケーシー高峰が熱演)は国家が
戦争に向かっていく時期に少年期を迎えていたために戦争遂行とお国の為に
生きることがどこまでも『正義』であると信じ切っていた世代
で、それゆえに
戦争終結という事態を全く受け入れられず精神に破綻をきたしたまま戦後の世界を
生きている。恐らくは友人を最も沢山、最も悲惨な形で戦場で失っている世代であり
精神的にも「戦争の犠牲者」といえる世代である。

 主人公の青年は、自分と戦争が関っていることなどは「歴史年表的にしか」知ろうとも
せず戦後社会だけが自分達の「全て」であり、それ以前は全て"下らなく唾棄すべき
もの"と深層心理的に決め付けている。しかし、その『平和』は臭いものに蓋をしただけ
のある種、戦時中とそれほど変わらない(もしかしたら何一つ変わらない)
ヒステリックでどこかファナティックですらある欺瞞に満ちたものだといつしか
思い知ることとなる。

 秋吉久美子演じる少女は、少女から女へと切り替わる直前を生きる生涯で最も
肉体的・精神的にエネルギーに満ち溢れたその能力の全てを駆使して、感覚的に
自分より上の世代の壮大且つ巧妙且つ深遠なる『嘘』を見抜き、大人達に
懺悔を日夜迫る

 スタッフ達は多分、確信犯的にチェスの駒のように明確に役割と行動様式の異なる
世代感ギャップを登場人物達に配したので、役者達の芝居のレベルを補ってもまだ
余りある緊張感を画面に生み出すことに恐らくは彼らの意図以上に成功している。

 夏のある日少女の家族一向は能登へ向けて小旅行に繰り出す。そのタクシーの
中でのシーンはそこいらの純正の莫大な制作費をかけた商業娯楽作品よりも優れて
"映画的"である。少女は不貞腐れていて、主人公の若者は自分の場違いに戸惑いを
隠せず少女の両親は相変わらず徹底的に表面的な取り繕いを崩さずすまし顔。
叔父の男は太陽の強烈な日差しに戦場のフラッシュバックが起こりそうなのをひたすら
耐えに耐えやたらと電気剃刀で顎を擦る。油汗を垂らしながら。

 小旅行は当然のように不和協音の中で脆くも破綻する。

 少女は親たちの互いへの愛などない取り繕いに怒りを爆発させ、叔父もまたいつもの
精神の破綻を起す。少女は岸壁から飛び降りようとし、叔父が持参した?
テープレコーダーを再生させると、
一九四五年八月十五日の玉音放送が流れ出す。。

 秋吉久美子は、その後の周知の活躍を強く予感させる不思議ちゃん振りと、子猫振り
を前半で充分に炸裂させてとても美しい裸体も披露するけど、彼女の容姿的、年齢的な
子猫振りを表現するための支離滅裂な台詞ではなくて本作のテーマである少女としての
臨界であり女としてのスタートである『十六歳』に軍需工場で働かされ且つ命を奪われた
女性達への鎮魂であり、彼女達以外の人間達が、『勝手に想像した彼女達ではなく
彼女達そのものの総体』としてのキャラクターだから時に巫女のように時に予言的に
肉体から離れた時系列を超越した台詞を次々に吐き出すのだろう。

 少女の怒りが単に思春期の大人達への憎しみではなくて、青春の真っ只中で命を
奪われた少女"達"の抗議である
と明確になる後半の展開、過剰なまでの爆撃シーン
の迫力は前半の甘ったるい若い男女の淡いジャレ合いときっちりと表裏を成していて、
製作者達はこの時代に自分達が感じた戦争や平和という言葉の持つ胡散臭さや隠さ
れたカテゴリーの量と規模の大きさと、その過程の複雑さ、単に大人達を糾弾しても
解決に向かうはずもない"日本"という巨大な何かと真に向き合いつつどこまでも映画
という娯楽作品に仕上げようと悩み且つ意気込んで、最終的には大成功している。

 主役を演じる下田逸郎が手掛ける音楽も全体的に独自性が主張されていて敢えて
作中のシーン自体には合わせようともしないとことが返っていい効果が出ている。

 自分が個人的に秘めていた(中年となった最近は久しく忘れてもいた)日本の
「戦後の平和」というものへの"疑いの眼差し"をフィルムにかなり自分の気持ちと近い
温度で収めていた作品があったことを知った嬉しさを感じた。

 と、賞賛の言葉を散りばめて書いてきたがこの作品はとても万人向けの作品など
ではなく幾つかの点に子供が観る作品では到底無い。あくまでも地方自治体が出資
した作品であり、製作されてから2年間も公開が遅れたのも至極納得である
公開が出来なかったとしても仕方が無かったかもしれない。

 これは、出資者の予想と期待を大きく越えて、ほぼ完璧に娯楽作品でエンター
ティメント性も高く、青春映画でもあり、芸術作品でもあり、そして何よりも大人達の
自分がKYと指指されることを避けに避け続けた無為無策の連鎖の果て
『上から下までお互いに空気を読み続けた、それ故の国家的破滅を、
自分達の短い生涯と命で落とし前を取らされた「女」にも「母親」にもなれずに
殺されて
いった少女達への『鎮魂』であり、"戦後"という何かへの告発でも
あるのだ

 登場人物達は、もしも『戦争』さえなかったら、またはほんの少しでも戦争が違った
形で終結していたら恐らくは"誰も互いに出会っていない"であろう世界
人物配置の構成は偶発的、思いつき的、即興的な要素も多分にあるであろうが
本作では全部が良い方向に働いているのがまた面白い。

 鑑賞当日の夜、自分としては相当に珍しくも帰りにビールを買って飲んだ。
本作に限っては酔っ払って反芻するのが正しい鑑賞方法のような気がした。
今もって何一つとして変わらない無知無能なる大人達の無為無策の落とし前は、
これからの少なくとも自分よりも若い世代が形は異なるが再び取らされること
には違いないのだから

 「3.11」後の数ヶ月間だけで何千人・何万人の日本に暮らす子供達、少年少女達の
運命は震災の為ではなく無能無策による大人災(≒戦争)の為にすでに飴の
ように好き勝手に捻じ曲げられているのだ。
今、この瞬間も。今日、この夜も、、

 「十六歳の戦争」はいつの時代でも起こり得る。
「十六歳の戦争」は「3.11」後の、今の、この日本で現在進行形で起こっている。

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コメント

ご無沙汰しています。

いろいろと思い出して

豊川海軍工廠での記憶をブログ化しました。

投稿: MondoSamurai | 2011年7月27日 (水) 01時31分

ご無沙汰しております。m(_ _)m
もうすぐ一年経ってしまうのですね(^^)
 
記事拝見いたしました。
取り上げて頂きありがとうございます!
『映画体験』とはすなわち『記憶』でも
ありますから、過去の記憶の覚醒に少し
でもお役に立てたかと思うと大変嬉しいです。
 
MondoSamurai さんのブログ↓
http://ameblo.jp/funk20022000/entry-10966276041.html
 
>『男だけの英語』は、今からでも遅くはあるまい。
 
卓見に従いまして古本をゲットしました!
もうすぐ届くはず(^o^)
 
またお話しできる日を楽しみに
日々、映画を観て旅費を貯めます(^^;)

投稿: kuroneko | 2011年7月28日 (木) 00時23分

この記事へのコメントは終了しました。

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