弔いのブログ或いはブログの弔い
日本国内のとある一地方で、派遣社員やら契約社員やらでどうにか
こうにか日々の糧を得て生き延びている某若者のブログをここ半年ほど
時々眺めていたのだが、生活に窮したらしくプロバイダ契約を解約する
ことにしたとの理由で数週間前に"最終回"を迎えていた。
「最終回か、残念だなー。文章も達者なのになぜこれほど人生に
苦労されているのだろうか」
「最後だから一言"頑張れ"のコメントでもしておいてあげようか」
などと思いながら、そのブログの過去ログなどをちびちびと最終回の
更新以降も読んでいたら、今日アクセスしてみたらサイトが消滅していた。
震災以降、多くの人同様に自分にも多少の心境の変化があり、
震災前まで欠かさず読んでいた幾つかのブログを読むのを止め、
逆に3.11以降、注目度が個人的に増していたブログもほんの幾つか
あった中で、この若者のブログは注目度を上げた方に属するブログで
あった。
自己分析も他者への視線や観察も常に冷静沈着と思われ、世間を観察した
結果の自己の考えもきちんと伝わるようにそれなりの量の文章に
出来ていた。当然のように正社員への道を模索していたようで
実際に正社員に成りかけたこともあるとのことだったが、
もう三十路も近いらしく、この(自分から見たら)若者も震災以降の
社会と自分の年齢と境遇について何か期するものがあったの
かもしれない。
ブログ上からだけ察するにこの若者は自分の人生を切り開ける
実力はきちんと持ち合わせている。正社員になることが近々の
人生の目的であればきっと正社員になれることだとう。
自分の生きている環境(生まれ育った地元らしい)では正社員に
なることがいかに厳しいかということも当然であるが、エントリーを
幾つも起こして延々と語っておられた。そもそもこの若者が
ブログを立ち上げた理由が正社員になれない事への鬱憤晴らし
であり、派遣社員や契約社員の現場の環境の詳細なレポートであり
"呪詛"を絶叫することであったらしいのだが。
もしも本当に正社員になりたいのだとしたら、何が何でも
正社員になりたいのだとしたら、今暮らしている地域を離れるしか
ないと思うが、もしかしたら何かの理由で離れられないのかもしれない。
何かを得るには何かを失うしかない。何も失わないで得られる
でのあればそれに越したことはないが、人生はそうそう甘いもの
ではない。自分も生きて今日まで来て、運のいい奴・悪い奴、
金回りのいい奴・悪い奴、モテル奴・モテない奴(←?)その他様々な
組み合わせとそのバリエーションをお好みでチョイスして生きている
多くの人々を見て出会って別れてきたが、ただ一つのパターン
『勝ち続けいてる奴・何かを失わずに得続ける奴』だけは見た
ことも聞いたこともない。
やはり、何かを得るには何かを失わなければ得られない。
たった一つ得たいからといって一つ捨てれば得られるとは限らない。
ほんの小さな何かを得る為に、自分にとっては途方も無いものを
時には捨てなければならない時もある。
『ゲットしたい』のであれば、運だけに任せないのであれば、
そこには手順なりルートなりがある。"それ"を自分で作り出さなくては
ならず、作り出さなくてはならないから人生というゲームは面白い
のではなかろうか。
私が君のブログを覗いていたことを君は知る由もないだろう。
しかし、君がこのブログを見て、まさか君の事を書いただろうとも
思わないだろう。しかし、君がこのブログにたどり着く可能性は
そんなに低くないと私は思う。
君のブログは消失して、もう今はない。しかし、今はもう存在しない
君のブログを見て、顔も年齢も学歴も住所も特技も何も知らない君に
エールを送り、ブログの文章と内容に少なからず関心して、君という人間が
人生の目標に少しでも達成できることを応援したいと勝手ながら思っている
人間がここに少なくとも一人はいるということを記して「ブログの弔辞」としてみた。
(他の全ての記事同様、この記事が該当する当事者にどんなプラス
かまたはマイナスの作用をするかという遥か以前にあらゆる意味で
筆者の単なる自己満足である事実もまた同時に"存在"しつつ)
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