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2011年7月 3日 (日)

ある人間の履歴(三)

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・ 明治33年元旦(1900年1月1日)、岐阜県加茂郡八百津町
(やおつちょう)に生まれる。名前の「千畝」(ちうね)は父の赴任地
だった実際にある地名からとられたとする説が一般的である模様。
千畝には千枚田、棚田という意味があり八百津町の棚田は
「日本の棚田100選」に選ばれている。

  

・ 明治45年(1912年)、古渡尋常小学校を全甲(オール5)で卒業する。(12歳)

旧制愛知県立第五中学に作家の江戸川乱歩と入れ違いに入学する。
父は医者になることを望んでいたが、本人は医者になることを拒み、
京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)での試験では故意に
白紙答案を出した。

  

・ 大正7年(1918年)4月、早稲田大学高等師範部英語科予科に入学。(18歳)

英語の教師になるつもりだった。授業中はほとんどノートをとらずに
内容を全て暗記していた。父の意志に反した進学であったため、仕送りが無く
やがて困窮した千畝は図書館で偶然に外務省留学生試験の情報を掴み、
図書館に篭って猛勉強を始める。

 

・ 大正8年(1919年)10月、日露協会学校(後のハルピン学院)に入学。(19歳)

11月に早稲田大学を中退する。官費留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。
ロシア語の選択は千畝の意志ではなく説得されてのものだった。寸暇を
惜しんでは辞書の単語を覚えては破って捨てるという特訓を自らに課した。

・ 大正9年(1920年)12月、大正11年3月まで陸軍に入営する。(20歳)

・ 大正12年(1923年)3月、日露協会学校特修科修了。(23歳)

すでにロシア語は堪能になっており高い評価を受ける。

・ 大正13年(1924年)、外務省書記生として採用される。(24歳)

・ 大正15年(1926年)、『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を書く。(26歳)

ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。

・ 昭和7年(1932年)3月、満州国建国が宣言される。

・ 昭和7年(1932年)、満州国外交部事務官となる。(32歳)

・ 昭和8年(1933年)、政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との

北満州鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当する。(32歳)
ソ連側の要求額6億2千5百万円強を1億4千万円まで値下げさせ外交的に
大きな勝利を得る。ソ連側の要求した額は当時の日本の国家予算の
1割強という巨額なものであった。

・ 昭和10年(1935年)、満州国外交部を退官する。(35歳)

大正13年に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと
結婚していたが、同年に離婚。またこの満州滞在中に杉原は正教会の
洗礼を受けている。洗礼名は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」(パウロ)であった。
キリスト教とは早稲田学生時代にすでに出会っていた。

ハルピン滞在中に関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるように
強要されたが拒絶している。橋本欣五郎は極東軍事裁判でA級戦犯として
追訴され終身刑となった人物(後に仮釈放)。「驕慢、無責任、出世主義、
一匹狼の年若い職業軍人の充満する満州国への出向三年の宮仕えが、
ホトホト厭になっ」ての退官であった。

リットン調査団への反駁文をフランス語で起草したこともあったが、
この頃より日本の軍国主義を冷ややかな目で見るようになる。クラウディア
との離婚の決定的な理由にはスパイへの拒否に対して関東軍が
妻のクラウディアがソ連側のスパイであることを流布したことであった。

離婚の際に財産をクラウディアとその一族に渡した杉原は無一文となり
帰国後に菊池幸子と結婚し池袋に暮らすが赤貧の生活となる。

・ 昭和12年(1937年)、フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任する。(37歳)

・ 昭和13年(1938年)、山路章・ウィーン総領事がナチス・ドイツの迫害により
極東に向かう難民が増えていることに懸念を示し、ユダヤ難民が日本に向かった
場合の方針を照会する請訓電報が送られ近衛外務大臣より極秘の訓令が
回電される。

・ 昭和14年(1939年)、リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。(39歳)

念願だった在モスクワ大使館に赴任する予定だったがロシア側に「ペルソナ・ノン・
グラータ」を発動して拒否される。理由は反革命的な白系ロシア人と親交がある
と判断されたことによるとされている。日本人が珍しいカウナスでは杉原の赴任に
よりちょっとした日本ブームとなる。

"ペルソナ・ノン・グラータ"とは外交用語の一つで「好ましからざる人物」の意味。

語学能力が極めて高く且つ諜報能力もあった杉原は日本の外交関係者の
間で獲り合いとなる。

ドイツとソ連の中間に位置するリトアニアのカウナスにが赴任した杉原に
参謀本部はドイツ軍がソ連を攻撃する意志があるかどうかの情報得る事を
期待し報告を要請した。

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・ 1939年8月23日 独ソ不可侵条約を結ぶ。(アドルフ・ヒトラー50歳)
      9月  1日 ポーランド侵攻を開始。
      9月  3日 英・仏がドイツに宣戦布告する。第二次世界大戦の開始。

ナチス・ドイツとソ連が締結した独ソ不可侵条約に盛り込まれていた秘密議定書
によりポーランドは同二国に分割されることになった。

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・昭和15年(1940年)7月、ドイツ占領下となったポーランドから多くのユダヤ人が
リトアニアに逃亡してくる。リトアニアは当時ソ連領で大使館の閉鎖をソ連側は
各国に通達していた。ユダヤ人達は業務を続けていた日本大使館に(通過)ビザを
求めて殺到した。

外務本省から発給条件厳守の指示があったが、杉原は発給条件を満たさない
者にも通過査証を発給した。発給作業の激務の余り、腕に激痛が走り、多量の
手書き作業に万年筆は折れた。亡命ポーランド政府の将校の一人は作業の一部を
ゴム印にしてはどうかと提案した。

・昭和15年(1940年)9月5日、ベルリンへ向かう(40歳)

やがて規定の手数料の徴収すら忘れ、ベルリンに移動することを余儀無くされた
車上の人となってもビザを書き続けた。その枚数は記録されている物だけでも2,139枚
にのぼった。一家族が一枚のビザで十分であったため、杉原は数千人の難民の
出国を助けたことになる。

「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」

杉原は頭を下げた。杉原達の乗る列車の姿が見えなくなるまで泣きながら
走っている人々の姿がみられたという。尚、カウナスの日本領事館には
ドイツのスパイ、ポーランドの地下組織抵抗組織の諜報員が入り込み
複雑怪奇な情報戦を展開し、千畝の夫人もスパイの存在には気付いて
僅かの気の緩みも許されなかった。

・昭和16年(1941年)、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任する。(41歳)
                  5月9日 ポーランドの諜報機関の協力の下で独ソ戦の情報を掴み、本国に打電する。

「、、、東プロイセンには旧ポーランド領に劣らぬ大兵力が結集しているので、
独ソ関係は6月には決定的局面を迎えるでしょう。」

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・ 1941年6月22日 ドイツがソ連に侵攻を開始する(バルバロッサ作戦)。
(アドルフ・ヒトラー52歳)

ドイツとソ連に挟まれた東欧のユダヤ人の悲劇が深刻化する。
逃げ遅れたユダヤ人はアインザッツグルッペンと呼ばれる「移動殺戮部隊」の
手にかかったり、ナチスやソ連の強制収容所に送られた。

・1941年年8月7日 ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは
「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書を提出し、杉原を
名指しで非難する。

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1946年までヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任する。

・昭和22年(1947年)、第二次大戦終結後に一年間の収容所生活を送り帰国。(47歳)
                 6月13日 岡崎勝男・外務次官から退職通告書を送付される。
                 6月27日 外務省を依願退職する。

居を据えた神奈川県藤沢市・鵠沼(げぬま)は杉原が尊敬した広田弘毅が戦中に
住んだ地だった。広田弘毅はこの翌年、文官として唯一のA級戦犯として絞首刑に
される。退職の理由はカウナスにおけるビザ発給の件が原因であったとされる。

・昭和44年(1968年)夏、「杉原ビザ」受給者の一人ニシェリと再会する。(68歳)

ニシェリは1940年の夏に杉原がカウナスから去るのを駅で見送った一人であった。
杉原は難民達に「センポ・スギハラ」という発音し易いように名前を教えていたが
外務省に照会しても「該当者無し」という返事であった。杉原自身が難民たちの
安否を気遣ってイスラエル大使館に足を運んで住所を教えていたのでニシェリと
杉原は再会することが出来た。

・昭和50年(1975年)、国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国する。(75歳)

東京に在住していドイツ人ジャーナリストのゲルハルト・ダンプマンは1980年、
杉原に対する外務省の冷淡さや国内での評価の低さに抗議した。表彰されないこと、
テレビや映画で取り上げられないこと、表彰されないこと、学校で取り上げられない
ことに。

・昭和60年(1985年)1月18日、イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」を受賞する。(85歳)

"ヤド・バシェム"とは、「諸国民の中の正義の人」(英:Righteous among the Nations)の
意味で、自らの命の危険を顧みずにユダヤ人を救った非ユダヤ人に与えられる称号。
千畝は心臓病と高齢により渡航できず、授賞式には四男の伸生(のぶき)が出席した。

・昭和61年(1986年)7月31日、心臓病により死去する。享年86歳。

・平成12年(2000年)10月10日、日本政府により公式に名誉回復が行われる。

・平成23年(2011年)3月21日、イスラエルの有力紙『エルサレム・ポスト』は
在京のユダヤ人達が募金の口座を開いたと報じた。その理由には「"チウネ・スギハラ"が
訓令に反してビザを発給し、6000人ものユダヤ人を救ったことに注意を喚起して」
とあった。

米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンは東日本大震災による被災者に
対する義援金を募るにあたり、公式声明を発表した。

「、、、今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人もの
ユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である」


※1 記述内容は基本的にWikipediaに寄っている。
※2 年齢については月日は考慮せず表記している。
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2012年の今もって"杉原千畝を演じた俳優"や、千畝を主人公にした
"映画作品"が幾つかポンポンと出てこないどころか、絶無であることは
日本人としては寂しい限りで『社会』の表層であり鏡であり、油のようなもの
である娯楽である映画やテレビドラマについての今後の大きな課題の
一つである。しかし、氏の人生を安易にトリミングしてしまう位ならばドラマ化なぞ
しない方が良い気もする。ジャーナリストのゲルハルト・ダンプマンの指摘は
一見、最もであるが、戦争の時代を「現在」と切りはなし完全に過去の遺物とした
上での発言であるという見方も出来る。杉原千畝はカウナス退去後もその
キャリアと能力を駆使して精力的に国際情勢を分析・調査して本国政府に
有益な情報を送り続けた。氏とその周辺をドラマ化するにはどうしてもビザを
発給する所までで物語を終わらせて一気に終戦後まで飛ばす必要がある
だろう。そんな、安直な歴史の鎖を断ってしまった嘘物語の主人公にされる
のは千畝も本意ではないのではなかろうか。杉原千畝のダイナミックで、
一個人として誠意を併せ持って出来るギリギリの判断の連続であった生涯を
"コンテンツ"にしてしまえないのは、「まあまあ、どうもどうも」の寝技で
ひたすら事無きを得てきた日本の欺瞞であることは間違いないが、
"外国人"には恐らく理解できない「一欠けらの良心」であるとも言える。
もしも、千畝の生涯が映画化されるとしたら篠田正浩の手による「スパイ・ゾルゲ」
(2003)のような、視点が哀しいまでに完全に分裂してしまっている手法を
取らざる得ないであろう。

外務省を追われた点についても、そのお役所体質を糾弾するのは、実に
容易いが杉原の行動を公式に認めてしまえば、組織に従わないことを是認
してしまうということになり、良くも悪くも縦割り社会で時を越えてきた日本という
単純に見えて実に複雑な"村社会"においてはいた仕方なしというところか。
真の問題は杉原千畝をヒーローとして扱えない自分の国を糾弾しておきながら、
事の真贋の調査・分析を平気で投げ打って、自分の保身に現を抜かしている
ことに微塵も気付かないその事自体ではなかろうか。杉原千畝は良心に従い、
法と組織の壁に限界まで挑んで多くの人々の命を救った。後輩たる我々は、
法を悪用して権力の座に居座り、確信犯的にシステムを麻痺させて国力を
落そうとしている多くの輩達を安穏として、跋扈させて退場させることが出来ずに
有史以来最大の危機を迎えてしまっている。世界中の人々の浄銭すら
今もって被災者の人々に届かない。そのことを糾弾することも是正することも
出来ない。我々は千畝の大きな足跡の中にすっぽりと入ってしまって方向性を
決められずにそのことに焦ろうともしない。

偉大な先人達の足跡を賞賛し、「同じ側の人間である」と宣言するのは実に
容易で実に気持ちのよいものであろう。最大の問題は自分自身の一個人の
立ち位置とその位置の理由と今後の指針を明確に出来ないことでは
なかろうか。

  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  

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