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2011年8月20日 (土)

観_11_08_20

観_11_08_20  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。今朝は昨日観た作品の余韻に
浸って至って心地よく起床できた。もしも見逃していたらと
思うとゾッとする。

 日々映画を観て、日常を生きていると人間にはA面・B面・
C面・D面くらいの面が老若男女の誰にでもあって、それが
細かく時と場合によって入れ替わってお互いに生きている
ことが良く判る。

 本日の鑑賞作品は作品そのものよりも、居合わせる
であろう観客が恐怖であった。人間が"善"として、その
行為の一部を"悪"として「定義している」テーマに関する
作品であり、『映画』というものは

 

『人間』とは、善でも悪でもなく、どんな人間でも、あらゆる
人間は、瞬時にして善にでも悪にも成り得る

 

ということを描くべきであると思うのだが、善と悪を最初から
切り分けていることが想定されている映画には善と悪を勝手に
切り分けて勝手に自分を善の側と位置づけている
恐るべき人間が来てしまう。自分を善として定義している
から権利だけが無限にあり。権利と等価ともいえる
責任または義務という言葉はそういった人間には無い。

 予想通り、権利(映画チケットを購入し鑑賞する権利)だけを
勝手気ままに行使し義務または責任(周囲・他人に極力
迷惑をかけない)の行使はハナから履行する気の無い
人間に遭遇してしまった。百パーセント予想していたので
怒るよりも苦笑。ただし、作品が始まると、流石に普段の
商業主義的作品とは幾分違うということもあり、多分初めて
その責任・義務という言葉を知らないであろう男を、多分
映画館内では初めて一喝する。

 自分の一喝(他人の鑑賞を妨げないように注意喚起)は、
何となく空気的に周囲の人々に好意的に取られたようだし、
実際に冒頭はこの阿呆に幾度か鑑賞を邪魔されたが静かに
鑑賞できて良かった。実際に内容的にも黙って観るべき
作品であった。

  作品は思いのほか映像的に良く出来ていて何よりも当時の
製作者達自身達も想定していないのではと思えるほどに
「特定の時代の特定の地域の空気」が完璧なまでに再現
されていて、映画史の中でも相当の評価に充分に耐えられる
ものだと思える。後半は普通に映画として鑑賞していて
冗長だと思える部分もあるなーと偉そうに思いながら観ていた
がラストの映像表現の発想・思想は普遍性は高く且つ映像
表現としても素晴らしく鳥肌が立った。

 帰りはいつもの神社で御参り。今日の御参りは鑑賞した作品の
内容も大きく影響していつもとはかなり違った気持ちでやや長めに
沈黙。賽銭もほんのちょっとだけ多めに。

 不作為による政治的白痴の為に多大なる苦難を強いられた、
または今現在も苦難を強いられている人々に(広義的にはその中
には自分も入るであろう)対して、黄泉の世界に去った人々には
哀悼を。今現在を生きる人々には祈りを。

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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