映画「戦火のかなた」
「戦火のかなた」
Paisà
Paisan
監督: ロベルト・ロッセリーニ
脚本: ロベルト・ロッセリーニ,アルフレッド・ヘイズ,他
撮影: オテッロ・マルテッリ
音楽: レンツォ・ロッセリーニ
出演: カルメロ・サツィオ,ドッツ・M・ジョンソン,マリア・ミーキ
時間: 116分 (1時間56分) [モノクロ]
製作年: 1946年/イタリア
(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)
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第二次大戦は終盤を向かえ、イタリアに上陸した連合軍はナチス・ドイツと
闘いつつ各地を開放していく。上陸開始から内陸へと歩を進めながら六つの
異なるエピソードが描かれる。
Ep.Ⅰ: 上陸
Ep.Ⅱ: 治安
Ep.Ⅲ: 開放
Ep.Ⅳ: 前線
Ep.Ⅴ: 教会
Ep.Ⅵ: 最前線
Ⅰ: 上陸 現地のイタリア女性とアメリカ兵の邂逅
上陸を果たしたアメリカ軍は現地のイタリア人女性を情報収集に
利用しようとする。監視役に任命された男はイタリア語が全く出来ない。
必死にコミュニケーションを取ろうと苦心する男に女はしだいに心を許す
ように見えたが。。
連合軍(アメリカ軍)兵士の話す英語とイタリア人のイタリア語、ナチス・
ドイツ軍の話すドイツ語とちゃんとそれぞれの国の言葉を喋っているのに
妙に関心してしまった。昨今の戦争映画の多くは最初こそ、それらしく
喋っていてもものの数分でグダグダになるのでその点が見ていて新鮮だった。
Ⅱ: 治安 黒人MPとイタリアの少年の淡い友情物語
戦線が遠ざかったイタリア市街の治安回復に努める黒人MPと、
生きるために盗みを働く少年。黒人MPに接近する少年。二人は
親しくなるかに見えたが、少年は隙を見てブーツを盗む。少年を
追いかけた男が真の当たりにしたのは疲弊に喘ぐイタリア市民の
困窮極まる姿だった。。
親を失った少年と黒人アメリカ兵士の交流を爽やかに描いている。
黒人役の男性が活力に溢れていて良い演技。少年の前で最初こそ
「(国に)帰りたい」と連呼してみせるが、異国の地で解放軍の一員として
振舞える"今"と差別と低賃金に苦しむ本国での暮らしの辛さをユーモラス
に好演している。名作「山河遥かなり」(1947)と相似形を成すシュチュエーション。
短いながらもエンディングにおいても黒人青年が直面した"現実"の苦さを
観客も共感できて好編だと思う。
Ⅲ: 開放 男と女
圧政からの開放に沸き立ち連合軍に熱狂するイタリア市民。
戦車の乗組員の一員として熱烈歓迎を受けた男は一人の女性と出会う。
女性の名はフランチェスカといった。その後、開放時の"情熱"は日を追って
市民から失われていった。ある日、男は酔った勢いで出会ったばかりの女の宿に
無理やりおしかける。見ず知らずの男を平気で連れ込む"女"を相手にもせずに
フランチェスカとの情熱的な出会いを一方的に話し、男はそのまま寝込む。
目の前にいる"女性"の名を聞こうともせずに。。
時代とシュチュエーションを変えて、無数のバリエーションが世界中に存在する
であろう典型的な男女の短い出会いと別れの物語。ファシストからの圧政から
開放されるWWⅡ末期を舞台にして、イタリア娘と連合国の軍人が出会う場合は
女性の名前は"フランチェスカ"と相場は決まっているのかと思ってしまい
可笑しかった。ほぼ同時代を描くゼロ年代の戦争大作「フライボーイズ」
(2006年)でも主人公は"フランチェスカ"という名前のイタリア娘と恋に落ちる。
再会を約束する"広場"が重要な要素であるのも一緒。
Ⅳ: 前線 兵士達と女
女に抱かれて死に行く男。
恋人同士であろうと、なかろうと、親しくあろうとなかろうと、"闘いの果ての死"
を確信した男は何が何でも女に抱かれねばならないのであろうか。それは
結局の所男は(女も)女から産まれてきたからなのだろうか。石井輝男の
「いれずみ突撃隊」(1964)でも、ウォルフガング・ペーターゼンの「パーフェクト
ストーム」(1997)でも、時代背景も異なり、"死地"が戦争ではなくても、命を
賭ける男達は、女に抱かれて死地に飛び込んでいく。抱かれるから男は勇んで
死んでいけるのか、それとも死に逝くから女は男を抱きしめるのか。。
Ⅴ: 教会 異教徒とアメリカ人
開放の足音はやがて教会にも及び、牧師達は対応に困惑する。
"トータルウォー"による政治と国境の制度的な崩壊によるカトリック教徒と
プロテスタント教徒、ユダヤ教徒の邂逅と共存の為の折衝と模索。
周囲を海に囲まれていて、その事がそのまま軍事的な砦になると共に情報の
入出力の強固な壁になってしまう島国で育った日本人には苦手なテーマで、
それゆえに一瞬一瞬のシーンが食べたことのない、素材もよく判らない料理の
ように新鮮な印象を受ける。作り手側も、"箱"(平穏なシステム)が突然壊れた
ことによる非日常の出現ということを意識的に全面的に押し出して作っている
ように思う。全エピソードの中でも特にじっくり瞬きもせずに見直したい一編。
Ⅵ: 最前線 パルチザンとドイツ軍
追い詰められたドイツ軍兵士は容赦ない放火に晒され次々と斃れていく。
パルチザンは「ドイツ軍であるから」という理由の下に決して攻撃の手を休め
ようとはしない。最早、勝敗が決しようとも。。
"死"の前では全ての者が平等である。ナチスであってもレジスタンスであっても
日本兵であっても。源氏に追い詰められた平氏の如くに"死"を受け取っていく
ドイツの残兵。同じ人間であって、生まれた立場と背景が違って、互いに武器を
取り、殺しあう。殺しあうことを互いに正当化する。
"死の目前"における『平等』。
全エピソードの中では個人的には黒人MPと少年のエピソード(Ⅱ: 治安)が一番
"映画っぽい"と思った。1946年に製作されたという点がこの作品に決定的な激しく
肯定すべき"something"を与えている。後世の時代が『平和である』と言うので
あれば、この"something"は永続的に戦争映画の諸作品全てに受け継がれて
いくべきであるが、50年代にも入ってしまえば、世界的に決定的に失われていく。
それは果たして"良いこと"なのだろうか?我が国はどこかと"表向き"交戦状態
ではないが、年間に3万人が命を絶ち、国債による借金は1千兆円を越えた。
これは平和と呼べる状態であろうか。。年に3万人の命が消えて、借金で国の
システムは崩壊寸前で、優れた映画を産まれる土壌は蝕まれ続ける。。
これは『平和』と呼んでいいのだろうか。
何が、どこで間違っているのだろうか。。
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コメント
rumichan様、コメントありがとうございます。
>前作の『無防備都市』
まだきちんと観れてない作品です。
今度観る時が楽しみになりました。
ありがとうございます。
・レジスタンスが縛られて河に投げ込まれて殺されてしまった.
・レジスタンスは捉えたファシストを、有無を言わさず道路にねじ伏せて
撃ち殺してしまったのでした.
この辺について「戦争」とはそういうものですよね。
「立場が違う」というただそれだけの理由で殺し合わなくてはならない
不条理。
・戻ってきた、他のアメリカ兵達は、死んだ兵士を見て、彼女が殺したと思ったのです.
これも「不条理」を描いていますよね。
状況証拠から「そうに決まっている」という描写。
製作された時期としても映画という作品としても秀逸な描写が多い
作品だと思います。
>では、どうしなければならないかと言えば、
今後観る機会があれば、じっくりと観て、じっくりと考え、
また是非、ブログに自分としての意見と感想を書きたいと思います。
投稿: kuroneko | 2015年4月12日 (日) 19時51分