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2011年11月

2011年11月28日 (月)

観_11_11_27

観_11_11_27  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。日本人にとって不愉快極まるニュース
が3.11大人災以降、"政治主導"とかいう日本語としてもどことなく
不愉快な言葉で洪水のように垂れ流されるせいか、師走に向かって
どことなく根拠の無い明るさが見られるはずのこの時期に、何だか皆
イライラ感を募らせているように見える。年末も、年始、それ以降も
禄でもないことが、"政治主導"とかいう日本語としてもどことなく
不愉快な言葉によって盛大に行われることが判りきっているから
なのだろうか。情けないの一言だ。

 鑑賞した作品は邦画を三本ほど。いずれも観終ってみれば趣向は
異なるが、三様に「男女の愛」について描かれた作品だったと言える。
たまには悪くない。

 午前中は、いつも映画のチケットを買う店が閉店してしまい、チケット
難民となって何箇所かウロウロ。目的の作品の前売り券を無事に
入手できたけど、案の定、何もわかっちゃいねー店員に何度も
作品名を聞かれ恥ずかしい思いをする。今、しばらく自分にとって定番の
店探しは続きそうだ。

 午後は上映時間の合間に飯を食う店を探して街を徘徊する。一軒
だけ良さ気な店を見つけた。実際に食事をしたのは違う店だが、次回
利用してみよう。開店しているのかよくわからない不親切な感じに
味に自信があると見た。

 明日から、またセコセコイライラと生きていくことになりそうな予感濃厚だが、
今日という日はどうにか先人達の優れた作品を鑑賞することで乗り切れた。



 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年11月26日 (土)

映画「去年マリエンバートで」

2010年に見た映画(二十八) 「去年マリエンバートで」

原題名: L'Année dernière à Marienbad
監督: アラン・レネ
脚本: アラン・ロブ=グリエ
撮影: サッシャ・ヴィエルニ
音楽: フランシス・セイリグ
出演: ジョルジョ・アルベルタッツィ,デルフィーヌ・セイリグ,サシャ・ピトエフ
時間: 94分 (1時間34分) [モノクロ]
製作年: 1961年/フランス・イタリア

2010年 3月鑑賞
(満足度:☆☆☆+)(5個で満点)

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ワンシーズンの男女の恋の駆け引きを絢爛豪華な映像美で描く。

 

 どのシーンも化粧品か酒の宣伝広告のようにピカピカと光沢
があって完成された構図と美しいモノクロのトーンで「彩られて」いる。
上流階級の美男美女達。。徹底して主人公の"主観からの映像と音"
で構成されているのがなかなかお洒落だ。

 自分は明らかに精神的・金銭的・物質的に下層階級の暮らしの日々
であるのでいまひとつ感情移入して鑑賞出来なかった。後、10歳くらい
歳をとって観ると今よりは楽しめて観れる気がする。そんなわけで少々
長く感じた。本作にどれくらい集中して観れるか、どれくらい興味が持て
るか、持てないかで、その人の人生の成熟度と精神年齢が判るかも。

 撮影のサッシャ・ヴィエルニ(1919-2001)は本作と同じくアラン・レネと
組んで、アウシュビッツ強制収容所でのユダヤ人迫害に迫ったドキュメンタリー
「夜と霧」(1955)の撮影も手掛けている。アラン・レネは2011年現在89歳。
wikiによれば、1958年に来日したきりであるようだがちと寂しい。

 アラン・レネは、20代にゴッホやピカソのゲルニカ、ゴーギャンをテーマ
にして作品を撮っている(いずれも短編作品)が観てみたい。本作の
よく冷えた端麗辛口の冷酒のような作品とフィルモグラフィーを見ると、
アラン・レネは、20世紀以前に生まれていたら画家になっていた運命
なのもしれない。

 好きな人は大好きであろう作品。住まいを常に清潔に保って一点豪華
主義と孤独を愛するというタイプの女性がもしいたとしたら、こんな作品が
お勧めのような気がする。

 美しく、孤高な女と、極上のワインが似合う。きっとそんな映画。

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2011年11月24日 (木)

観_11_11_23

観_11_11_23  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。朝、起きて洗濯して、映画館に向かう。
いつもの神社に御参りして、最近開拓したカレー屋でカレーを食す。
今月も何とか乗り切れそうで安堵。

 鑑賞した作品は80年代の作品である軍関連に従事する人々とその
周辺を追ったドキュメンタリー他一本を観る。普通に社会見学的な
知的好奇心を満たせて満足。他にもう一本邦画を観るつもりでいたけど、
考えた結果スルーして帰宅した。

 ほぼ毎日利用する駅前のスーパーの従業員オバ様一名に好かれて
しまったらしく、いつも満面の笑顔と挨拶で迎えて頂き、熱視線と
レジでしきりと話しかけて来る様が正直痛かったりする。会社の帰りで
クサクサした気分で買い物することも多いので、仏頂面できないのが
面倒くさいというのが本音なのだがまあいいか。

 社会人たるもの愛想笑いくらいはいつでもどこでもできないとイカンね。



 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年11月22日 (火)

観_11_11_21

観_11_11_21  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。気持ち良く晴れた一日。
自分にとっては、今日はここ数ヶ月間の闘いの大きな
区切りの日で、事実上の2011年の大晦日であり、2012年の
元旦でもある重要な日となった。一つの"終戦の日"である。
勝利で終わったといって良いと思えるのがとても嬉しい。
昨夜は「本当に戦争が終わるのだろうか」と明け方まで
眠れなかった。

 電車の中で、小学校低学年と思われる娘と父の姿を
何気なく見る。目の前にいるので否応無しに聞こえてくる
二人の会話から、別居中から離婚したと思われた。父親の
それなりのイケメン振りと格好のチャラさから"そうなってしまった"
理由も何となく察しが付いた。娘の眼には明らかに両親が
見せてしまったであろう不和が焼きついている雰囲気だった。
娘が年頃となり、異性と付き合って、当然のように結婚を意識
した時に自分達の見せた何気ない言動や行動が大きくこの娘に
立ち塞がることをどれほど理解しているか、深刻に受け止めて
いるか、、とまったくもって余計な心配しても仕方が無いので、
気持ちを切り替えて、綺麗に晴れた空と雲を眺めていた。

 鑑賞した作品は80年代後半のある医師達の奮闘と患者の
苦闘記録。充分に見応えがあったが、個人としての終戦の日
を無事に迎えた安堵で中盤につい油断してウトウト。

 明日から、また気分を新たにして余り気合いも入れずに
生きていくことを誓い、神社で御参り。いつもよりとても長く
諸事について祈った。


 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年11月20日 (日)

映画「ゾンビ」

2010年に見た映画(二十七) 「ゾンビ」

原題名: Zombie/Dawn of the Dead
監督: ジョージ・A・ロメロ
脚本: ジョージ・A・ロメロ
脚本協力: ダリオ・アルジェント
撮影: マイケル・ゴーニック
音楽: ゴブリン
SFX: トム・サヴィーニ
出演: デヴィッド・エンゲ,ケン・フォリー,スコット・H・ライニガー,ゲイラン・ロス
時間: 139分 (2時間19分) [HDリマスター/ディレクターズカット版]
製作年: 1978年/アメリカ・イタリア

2010年 3月鑑賞
(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)

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 キャスティングの配置がバランス良くて映画としての厚みを増して
いるように思う。

デビッド・エンゲ演じる、少しばかり了見は狭い常識人のスティーブン
スコット・H・ライニガー演じる陽気で勝気なロジャー
ケン・フォリー演じる冷静沈着なる頼れる男ピーター
ゲイラン・ロス演じる紅一点の美貌を讃えたフランシーン

そして、主要キャストの紅一点の女性の妊娠というファクターが、
この偉大な傑作により一層の人間模様の立体性を与えている。

 ゾンビ VS 人間
 人間 VS 人間
 男 VS 女

 入れ子構造が掛け算ではなく、二乗・三乗されて人間の持つ原罪に
ついて観る者を絶え間なく刺激し続けてドラマは展開していく。

 抵抗出来ない者達(=ゾンビ)の上に君臨することに、ただひたすら
陶酔感と無上の"エクスタシー"を感じ続ける人間達は奢り、高ぶり、
"敵"を舐め切ってやがて自らの浅墓さの為に次々と斃れ喰われていく。

 中盤以降の主人公の一つともいえる人間VS人間VSゾンビの主戦場
であり、テーマの見地から見ても極めて重要な

「ショッピングモール」

という『約束された地』を巡って殺しあう人間達の描写の何という無理のない
自然さだろう。

 この映画はただひたすら、どのシーンもありのままに人間の本性と
歩んできた歴史を『一切の誇張なく』描いているに過ぎない。
彼等は死体共が「襲ってくるから」撃つのではなく、人間の形をした生き物
(もしくは人間そのものを)『撃ち殺したいから撃つ』のである。蹴飛ばし、殴り、
脳天を突き刺し、車で轢き倒す。

心の底から、そうしたいから、そうするまでである。

殺戮の限りを尽くす理由として、「だって死体だから」というエクスキューズが
必要であるに過ぎない。

「だって○○だから(暴力を働いても略奪しても何をしてもいい)」

本当はエクスキューズ何て一切全くどうだっていい。ただただ殺戮が出来れば。
その証拠として作中でただの一秒ですら「奴らが何者なのか」検証することを
望む人間は一切登場しない。そんなことをしたらせっかくの極上のエクスタシーを
味わえないから!

そんなウザったいことをする奴はゾンビということにして撃ち殺してしまえ!!

 救いがあるのは、主要登場人物達がそれぞれ魅力のあるキャラクターで、
偽善的でないことであろう。彼等はゾンビをやっつけて仲間を救おうとし、
ショッピングモールを独占して征服欲、所有欲をひたすら満たす。そしてそのこと
の罪も理解して自分達がいつで斃される側に廻ることを理解している。

 ゾンビを演じている大量のエキストラ?の皆さんはなかなか楽しそうで
よく見ていると、スタッフ側の意図通りには動けていない人々も明らかに
いるがご愛嬌。後半に主要人物の一人が"仲間"に入るが、流石に俳優だと
身のこなしが違ってまるでバレエのように軽やか?にステップを踏んでいる。

 やたらとよく出来たリメイクで、且つリメイクすることに意味を持たせることにも
充分に成功している。だが個人的にはオリジナル(前作)を観た衝撃の方が
強いので機会があればオリジナルを劇場で観たいものだ。

 ロメロの手掛けた本作を含めた"ゾンビ三部作"は、

一作目: Night of the Living Dead (1968)  (邦題:ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド)
二作目: Zombie/Dawn of the Dead (1978)  (邦題:ゾンビ)
三作目: Day of the Dead (1985)  (邦題:死霊のえじき)

となっていて、夜→夜明け→昼と時間経過が明確でコンパクトにまとまって
いて素敵。夜→夜明け→昼⇒夜→夜明け→昼⇒、、
ゾンビ映画って人間が最後の一人になるまで物語を半永久に作れそうだ。
三作目の邦題「死霊のえじき」もなかなか良い題名だと思う。

 新作のゾンビ映画がなかなかブロックバスターになり切れないとしたら、
それは、視点がゾンビという架空の物に向いてしまって、本作や
「THE CRAZIES」(1973)のように「詰まる所、問題は人間そのものである」
という点がどうしてもぼやけてしまい、観客は深層心理下のどこかで
その点について不満を感じ、ストレスを溜めてしまうからではなかろうか。
怪獣映画、SF映画、サスペンスなどの謎解き、全てのフィクションに
通じる大事な点だと思う。そして、その大事な点にきちんとフォーカスを
当てて脚本を書くというのは人生経験と世界に対する観察眼と直感、
誠実さ等、人間として肯定すべき得難い要素全てが必要になる。
だから、傑作というものは生まれなくても当然といえば当然なのだろう。

 白人社会の根幹に今もって厳然としてある狩猟民族としての厄介な
戦闘本能、「獲物を狩ること」(=ゾンビを倒す!)と自己をどこまでも守る
(=自己正当化の目的化)と、無限の所有欲の象徴としてのショッピング・モール
での人間同士の死闘と勝利者による完全なる封鎖と占拠(=戦争と戦利品
である植民地の拡大)。。資本主義社会における欲望の終着駅?である
ショッピング・モールについてはまた今度少し書いてみたい。

 ダリオ・アルジェントが参加していなかったら、完成された作品の
どこの何がどのように変わっていたか、ウダウダと考えてみるのもまた
楽しい。

 若いうちにじっくり瞬きせずに観て大いに楽しんだ方がいいでしょう。
これが「人間」で「社会」なんだから。決してそれが全てではないが。

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2011年11月19日 (土)

news「ニュートリノ 再実験でも光速上回る」

  
 

ニュートリノ 再実験でも光速上回る
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 素粒子のニュートリノが光よりも速く飛ぶとする実験結果を
今年9月に発表した名古屋大などの国際研究チームに参加する
イタリア核物理学研究所は18日、精度を高めた再実験でも、
超光速を示す同じ結果が得られたと発表した。
(略)
 研究チームは「最終的な結論を出すには他の研究機関による
追試が必要」としており、超光速をめぐる議論はまだ決着していない。
日本の物理学関係者によると、当初の実験は、陽子を飛ばす時間が
長すぎたことが一因で測定誤差が生じたのではないかと指摘されていた。
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2011.11.19 07:32
[http://sankei.jp.msn.com/science/news/111119/scn11111907330002-n1.htm]

 
 

 この「ニュートリノが光速を越える(かもしれない)」実験結果報告と
今後も展開するであろう経緯の面白さは、結果自体の驚きにあるのでは"なく"
科学者達と、膨大な数の人々が緻密なる予想と仮説に基づいて疑念を挟み、
追加実験を提唱しているのでは"なく"(勿論そいう意味での要望もある)、

『相対性理論が通用しなくなるかもしれない』

というある種の恐怖に近い懸念から、異論が噴出し、その異論が今回
またしても不利になったという事にある。社会の片隅で生きる
無力なる一市民の感慨としては、

「やっぱし宇宙人が存在していることはほぼ間違いなくて、しかも
太古から地球にちょくちょく来ているらしいぞ。オォイ!!(゚д゚;)

という所であろうかと思う(←違うか^^)。不愉快極まるニュースがテンコ盛りの
日々の中で、一服の清涼剤となる実に楽しいニュースだ
(宇宙人が地球に飛来したと思わせる"具体的なガジェット"は世界中に
数多(あまた)遺されているが総合的に事実と断定できる結論に辿り着ける
物は今のところ恐らくない)

 IT革命による情報の共有化により物質的なハードウェア的な世界、
精神的なソフトウェア的な世界、その他の世界においても、ここ10数年で
一般市民にもよくよく知れ割った事実の一つは、

 我々は何かを解明し、それらを理解し、解体・再構築駆使して生きている
 
わけではなく、安全に運用できるルールを作り、そのルールの範疇で
 
生活しているに過ぎない。科学の面においても、それは変わることはない。

ということであろう。宇宙の果てまでも観測することがほぼ可能になり、
本当に人智を超える速度であらゆる事についてシュミレーション(事前計算)
が可能になりつつある今という時代において、従来の『ルール』は一部か、
または大幅な変更の必要に迫られているというだけに過ぎず、ある種の
伝家の宝刀かバイブルのように扱われてきた感もある相対性理論、
光速不変の原理といえども例外ではないということなのだろう。

 ニュートンの"万有引力の法則"が、不確定性原理など実に多くの面で
実証に耐えられないとしても、ニュートンと多くのその系譜に連なる人々の
功績が無意味になったり、必要なくなったりすることは全くなく、たとえ
光より速く進む物質が珍しくなくなったとしても、アインシュタインの相対性原理
のおかげで、我々の住む社会は豊かになり、楽しくなり、あるいは窮屈に
なったかもしれないが、今後の全ての科学的発見の土台であることに
何ら変わりは無い。

 光速度不変の原理が通用しなくなり、たとえ気軽にタイムマシーンに乗って
過去や未来に行けるようになったところで、アインシュタインの功績が今後
さらに増すことはあれ、色褪せることはない。

 もしも、新しい発見に耐えられない理論であるからといって、安直に
否定されるとしたら(実際にそちらの方向に向かっているわけであるが)、
本当に過去や未来にいけるツールの開発が可能であったとしても、
我々人類には決してそのツールを入手できる日は来ないであろう。
その時には社会そのものが大崩壊して、光の近い速度の話しなぞしている
場合ではないのだから。

 実際に、我々が規定して定められ、保証されている権利と義務と責任の
行使にいかに日々苦労し、蔑ろにされ、泣き寝入りしているかは、
ほとんど全ての人間が毎日体験しているところである。

 『光』の世界、それに近い世界。それを越える世界。我々はその万分の一
の愚鈍な世界で奪い合い、憎しみ合い、足を引っ張り合い、運が良ければ
100年近く生きて、ほとんどの人間は個人的な思い出以外何も残さずに
別の世界に旅立っていく。だから『光』の世界の周辺は文字通り、とても眩し
くてロマンに溢れている。

 いくら観測は出来ても、そこに決して辿り着けはしないのだから。
 100億以上誕生してきた人類の中で、体験できる(できた)者はただの
 一人もいないのだから。だからこそ、"の世界"は眩く輝き続ける。

  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2011年11月13日 (日)

映画「フローズン・リバー」

2010年に見た映画(二十六) 「フローズン・リバー」

原題名: Frozen River
監督: コートニー・ハント
脚本: コートニー・ハント
音楽: ピーター・ゴラブ,シャザード・イズマイリー
出演: メリッサ・レオ,ミスティ・アパーム,チャーリー・マクダーモット
時間: 97分 (1時間37分)
製作年: 2008年/アメリカ

2010年 3月鑑賞
(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)

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 夫に新居の購入費用を持ち逃げされたレイ(メリッサ・レオ)は、
子供達と共にトレーラーでの困窮した生活を送っていた。失踪した
夫を捜すうちに、夫の車を運転していたモホーク族の女性ライラ(ミスティ・
アパーム)と出会う。成り行きから、ライラと共に凍結した河を車で渡り、
密入国を手助けする仕事に手を染めるレイ。それは、いつ警察の厳しい
監視に見つかり逮捕されるかもしれない、いつ車の重量が河の凍結を越えて
沈むか判らない危険極まりない日々の始まりだった。。

 

 主人公の中年女性レイを演じるメリッサ・レオの絶妙な"普通のオバ
サンオーラ"がとてもセクシーで時にエロティカルでもある。生活に
深刻に困窮してはいるが、本当にギリギリのところでは人間としての
"誇り"と"尊厳"を保って、きちんと着飾れば美しいはずの色気も持って
いるが安易に男にも屈せずに小さな息子と年頃の生意気盛りの息子二人
を必死で養うシングルマザー(夫は蒸発中)を上手く演じている。

 舞台はニューヨーク州の最北端に位置する極寒の地で、国境に接して
いて碌な産業も働き口も無いであろう小さな街であり、ごく普通の当たり前の
生活を手に入れようとすれば犯罪行為に抵触するか抵触寸前の行為を
するしかない。ポリスもそんな環境であることをよく知っているから"ヘマ"を
しなければそれなりに見逃すが、明白に"一線"を越えれば恐ろしいほどの
割合に昇るであろう"犯罪予備軍"の一般市民(貧民)への見せしめを兼ねて
容赦はしない。

 白人女性のレイと、カナダとの国境付近に保留地として住むモホーク族の
ライラ。二人は生活の困窮からなし崩し的に悪事に手を染め、常に"お縄"に
転がり堕ちるギリギリのところでかろうじて踏ん張っている。運も才能も根気も
正義感もあらゆる意味で"普通な二人"の女性が密入国に手を染めることで
どのシーンもいつ二人のどちらかが、あるいは両方が破滅へと転落するかも
判らない緊張感が常に漲っていてドラマとして完全に成立し成功している。

 レイとライラに何事もなくても、
もしも、子供に何か事故が起これば、
もしも、上の子供が非行に走れば、
もしも、"仕事"で渡る河(フローズン・リバー)の氷が少しでも緩んでいれば、
もしも、警察に車を止められれば、
もしも、取引先のオヤジとトラブルになれば、
、、、

『破滅』は常に大きく大きく、大きく口を開けて、24時間年中無休で、
満面の笑みで涎を垂らして、二人を大歓迎で待ち構えている。

 モホーク族の女性ライラを演じたミスティ・アパームも上手い。
この人はきっと相当に幅の広い役柄を演じることが出来るだろう。
監督と主演の女性二人、輝いている。心から三人とも活躍してほしい。
映画はお金をかけなくてもこんなにも面白い!という良いお手本の作品。

 本作のような予算としては小さいけど優れた作品に賞を沢山上げて、
エンジンとしての機構を備え付けて、世界中を走らせて次回作までの
資金とスタッフの生きていく糧を得るやり方は、映画という成果品を世の中
に出していく上で必要な手順と仕組みであり、を作る側も観る側も承知の上で
楽しんでいけばよいのだろう。本作が製作され、配給され、資金が回収
されていずれ次回作に繋がっていく様そのものがもう一つの『映画』の
真の姿である。今までもこれからも何ら変わることはない。

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観_11_11_12

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 都内某所で映画を観る。昨日とはうって変わって、一日
適度に晴れてとても穏やか一日だった。気のせいか、いつに
なく巷もノンビリとした雰囲気で大袈裟に言えばお祭りムード
のように人々も休日を楽しんでいるように見えた。

 個人的にも仕事上での困難を極めることが予想されたミッションが
目途が見えていつになくハイテンションになる。いつもの神社で
色々と感謝して御参り。友人の誕生日が近いことをふと思い出す。
心を込めてお祝いのメールを送ることにしよう。

 鑑賞した作品はゼロ年代のある"美と伝統"を追求する組織の
日々の姿を刻銘に捉えた記録映画。いつになく晴れやかな気分で
鑑賞できたことと作品自体が極めて優れていたことで大いに楽しむ。
隣りの席に鑑賞作法が醜悪極まる愚劣な客(40代前後と見られる
外見やや派手な♀)さえいなければ満点であった
が、辛うじて
我慢する。終了後にやはり注意すべきであったと後悔。

お前を相手にする人間なぞどこにもおらんわ(゚Д゚)凸
せいぜい孤独に苛まれて生きていくがよろし(-_-)

と帰り際に(心の中で)罵り、足早に席を立った。

 目的がしっかりあって、ただひたすらそこに向かって進むこと
それ自体が正しくて、何かを成し遂げたければ多くの場合はそうする
しかなく、自ずと無駄が削ぎ落とされ有機的となるその姿はとてつもなく
美しいのだと再認識した日。




  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年11月12日 (土)

観_11_11_11

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 都内某所で映画を観る。朝から雨。晩秋らしく、しっとり
と冷え込む。路傍に咲く花が雨に濡れて綺麗だった。

 3.11大人災以降、日々問題は起こり続け、増え続ける。
そのほとんどはスキームの構築が出来ていないか、運用の
先にある結果についての見通しの甘さか、あるいは故意の
不作為による日本という国家のポテンシャルの欠如が常に
問題である。スキームを常に疑い、必要であれば細かに
修正して、運用結果を検証し続けることで、よりよい「明日」
が見えてくはずだが、、

 スキームはすでに先人たちによって充分にあらゆる例が
提示されているのだから、我々はそのアドバンテージを
どこまでも有効に活用することに知恵を出し合うべきであろう。

 鑑賞した作品は90年代のある巨大な一つの"家"(ファミリー)
における"スキームの全貌"を捉えた記録映画と他数本。
今年の自分の予想消費エネルギーは大方消費されて、
鑑賞中についウトウトする。3.11大人災により予定よりも早く
消費されてしまっていながらも、ここまで何とか大きなトラブルも
なく来ていることへの安堵もある。

 人生における「踊り場」に居るような気分の近頃。。今
しばらく、後もう少しだけ現在の状況に甘んじていたい。

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年11月 7日 (月)

観_11_11_06

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 都内某所で映画を観る。気温はそれなりだったが
湿度が高くて汗ばむ一日だった。紅葉がかなり進んで
きた感じ。

 線路沿いにある石材店の軒先に置いてある石で出来た
狐のオブジェが電車の中からよく見えることをすっかり忘れ
ていて今日は多分震災以降では初めて目に入った。

 手駒を少しだけ、前に進めてみる。その結果が出るのは
恐らく来年の夏以降であるが、この一手によりその先の「人生」と
いう名の棋譜はかなり変わってくるものと思われる。もしかしたら
もの凄く変わるであろう。

 鑑賞した作品は70年代の記録映画で非行に走る少年・少女
達とその周囲の大人達を追った作品。子供達の行為は大人達が
放置する不完全極まる『社会』というシステムの発露であるに過ぎ
ないことがとてもよくわかる秀作。年齢に関らず多くの人間は等しく
「正しい判断が出来ない」という点についても暴き出していて、
幾つかのシーンは相当によく出来たフィクションよりもスリリングだった。
演技や物語というものは残念ながら多くが"事実"の劣化コピー
であるから当然と言えば、当然である。

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年11月 6日 (日)

映画「サクリファイス」

2010年に見た映画(二十五) 「サクリファイス」

原題名: Offret / The Sacrifice
監督: アンドレイ・タルコフスキー
脚本: アンドレイ・タルコフスキー
撮影: スヴェン・ニクヴィスト
音楽: ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
出演: エルランド・ヨセフソン,スーザン・フリートウッド,アラン・エドヴァル
時間: 149分 (2時間29分)
製作年: 1986年/スウェーデン・イギリス・フランス

2010年 3月鑑賞
(満足度:☆☆☆+)(5個で満点)

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 巨匠タルコフスキーが描く核戦争後の世界を生きる人々の
"内なる闇"を描く。

 

 予告編が終末感に溢れていて演出にスピード感もあってスリリングで
期待度からするとタルコフスキーの作品の中では断トツで鑑賞に臨んだ
が、、全く"乗れず"。ケロイドに侵されたわけでもない人々がジタバタする
様には残念だが滑稽感を禁じえなかった。

 映画=タルコフスキーと言っても決して過言ではない巨匠に、自分は
"核戦争後の世界"の何を描いてほしかったかと言えば、、

「日常を当たり前に過ごすという人類永遠の最高の幸福」

を完全に永久に失ったことと、放射線と熱線によって生きながらにして
人体が破壊された無残なゾンビ状態を、タルコフスキー流の地獄を
視覚的に描いて欲しかったが、究極なまでに『観念的』に恐怖して
右往左往する(というより引きこもる)人々が延々と執拗なまでに描かれ
ていて、勿論これはこれで充分に芸術的な且つ形而上学的作品と
なってはいるが個人的には少々ガッカリしてしまった。

 率直に言って、被爆した国の民の一人としてはこの作品はどうも
受け入れ難い。

 欧米の人々は徹底的に根底から「自らを罰を被る・非を認める」という
ことが全く・到底・まるで出来ないのだなあということはとてもよくわかる
作品だ。結果論的に人類のとって不味い状況が現出され、その犯人は
明白であるが事実がどうであれ、

『絶対に、絶対に、絶対に、自分達の非を認めるのは絶対に嫌だ

というのであれば、どうするかというと、これはもう無実の人間(人種)を
捕まえてきて、自白を強要し、土下座を強要し、犯人に仕立て上げる
しかない。

 つまり、私達が所有し、半ば無意識下において肯定させられている
『歴史』というものそのものの姿が本作の下地には敢然と存在する。

"それ"を描いたのだとすれば、大変な傑作だと言えるかもしれない。
"それ"を描いたのかもしれないとも思う。

 観ていてなかなか哀しいものがあった。主人公が植える"日本の木"
という言葉も、核(=ヒロシマ、ナガサキ)という暗喩も、尺八の音楽も、
何もかもが、実物を二発も喰らったこちら側の人間から観るとナイーブ
過ぎて抽象的で、結局の所は対岸の火事でしかないように思える。

 タルコフスキーの他の作品は、これから生きている限り何度でも、
何十回でも観て、楽しんで、味わって、咀嚼して、自分なりの解釈を
更新し続けていきたいものだが、本作に限っては、氏のこの作品に
込めた思いとはどんな物なのか聴いてみたい気がする。因みに
本作が氏の遺作となった。 

 

 どうなるか判りきっていて火を付けておいて、自分はほんの少しでも
火の粉を被らないように緩衝地帯を充分に設けておいて、21世紀の今
もって嗤っている人間達はいないか?

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2011年11月 4日 (金)

観_11_11_03

観_11_11_03  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。天気はそこそこ良かったが、
中途半端に湿度も気温も高い日だった。ここ2ヵ月ほど
諸事情で意識をなるべく集中して過ごす事を自分に課して、
それなりに成果も見えてきたせいか今日は一気に気持ちが
緩んで色々とヘマをする。妙に人にぶつかりそうになったり、
くだらない忘れ物が幾つもあったり。

 劇場では映画評論家の某氏に遭遇する。某氏とは観る
作品や時間帯が変に同期しているのかこれで遭遇するのは
三回目だ。異能のオーラが出ている方なので、三回目とも
なると混雑している会場内においても背中の雰囲気で一瞬で
判った。前回は席が隣りでややビビッた。そのうち話す機会が
あるかもしれない。

 鑑賞した作品は70年代終りの記録映画。あくまでも無色
透明に撮れていることに逆に製作サイドの教養の高さと凄みを
感じた。鑑賞中にやや大きな揺れがあり館内に動揺が走った。

 ここ数年コツコツ集めてきたツールのような物を少し
試運転的に繋げてみて何が、どこまで出来るか考えてみた
ところ、まあまあそれなりである感じ悦んでみたり。年内は
試運転で年が明けてからゆっくりと出力を上げてみよう。  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年11月 3日 (木)

観_11_11_02

観_11_11_02  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。秋だから当たり前なのだが、
急に涼しくなってきて手袋を付けて出勤してみる。

 鑑賞した作品はゼロ年代始めの洋画で、登場人物"全員"が
何かしらの嘘を付いているという当たり前の世界を描いた佳作。
本当の事を言わないというごくごく普通の世界を映画という虚構の
空間において作り出すことの難しさを観ていて実感。作品そのもの
については個人的には今ひとつだった。パーツが全部綺麗に
分解出来てしまうという点において。

 何も考えたくない日だった(いつものことだが)。何も考えなくて
それなりに時が過ぎていくのが有難かった一日。

  
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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