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2011年12月

2011年12月30日 (金)

映画を楽しむ方法(3) ~映画を夢想する~

   
  
  

 「桜田門外の変」(1860年3月24日,安政7年3月3日)の事を何となくwikiで
読んでいると、大老井伊直弼を護衛した彦根藩側の一人にして、藩随一の
剣豪とされた河西忠左衛門良敬という人に惹かれた。突然の襲撃と雪の
ために刀を柄袋で保護していたことにより後手に回った護衛側の中にあって
河西忠左衛門良敬は瞬時に状況を理解して、反撃を開始する。

 

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こうした不利な形勢の中、二刀流の使い手として藩外にも知られていた彦根
藩一の剣豪・河西忠左衛門は、冷静に合羽を脱ぎ捨てて柄袋を外し、襷を
かけて刀を抜き、駕籠脇を守って稲田重蔵を倒すなど、襲撃者たちをてこずらせた。
同じく駕籠脇の若手剣豪・永田太郎兵衛も二刀流で大奮戦し、襲撃者に重症を
負わせたが、銃創が酷く闘死した。その時の永田太郎兵衛の刀が、子孫の
永田茂(鈴木貫太郎の末弟)によって彦根城博物館に、赤備え甲冑等と共に
寄贈されている。斬りこみ傷が多数あり、激しい戦闘の生々しさを物語っている。
河西忠左衛門の刃こぼれした刀も同博物館に保存されている。
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(ウィキペディア "桜田門外の変"の項より)

 

 井伊側は抜刀出来ずに素手で刀を掴み、耳や指が切断されるなど、現場は
凄惨を極めたが、河西忠左衛門の仲間が斃れていく中での戦闘準備の様子と
若手剣豪永田太郎兵衛の二刀流での二人の反撃シーンを史実としての大事件で
あることは置くとして、あくまでも映画的な展開として想像するとワクワクしてしまう。
河西忠左衛門、永田太郎兵衛、共に闘死している。河西忠左衛門は享年30歳。
永田は検索した限りでは不明。

 個人的に結構好きな作品「男たちの大和/YAMATO」(2005)の佐藤純彌監督が
手掛けた作品「桜田門外ノ変」(2010)は襲撃側の視点から描いている作品で
あるようだが、公開当時は襲撃シーンのリアル描写が話題になったが、キャスト
を見た限りでは、井伊側のスポットは当てられておらず上記二人にはきちんとした
配役は無かったようで残念だ。史上名高い大事件なので描くべき事は幾らも
あるので仕方が無いと言えば仕方が無い。
 
 突然のテロに不断の訓練がモノを言ったであろう、冷静な判断と行動で"敵"を
大いに困らせた河西忠左衛門は自分の外見的なイメージは大友柳太朗(1912
-1985)。その場合に描かれる物語はイデオローグ的な点ではなく、剣の腕を
ひたすら磨き、主に仕えた有能な一藩士から見た"幕末"ということになる。
永田太郎兵衛は誰が良いか、、大友柳太朗はいかにも腕が立つオーラを出す
"好漢"なので、永田役は剣は滅法強いが、斬ることに躊躇いを覚える優男
という配置がベタだけどいいかもしれない。こちらは昨今の若手俳優で担い手
は困らないように思う。

 永田太郎兵衛はwikiには"若手剣豪"とあるが子孫を残しており(もしかしたら
養子かもしれないが)、子の永田廉平は海軍大尉として日清戦争(1894-95)に
おける黄海海戦で戦死されているようだ。永田家の跡を継いだのが終戦の
幕引きの大役を担うこととなる鈴木貫太郎(1868-1948)の末弟の茂であり、歴史は
連綿と続いている。奇しくも鈴木貫太郎もまた二・二六事件(1936)で暴徒に襲撃され、
頭部を拳銃で打ち抜かれながらも生還し昭和天皇の信任の下で時代を回転
させていく重要な役割を担う。

 私達は奇蹟的な人の繋がりと時事の判断と結末の連続の中で生きている
のであり、日々観ている映画の内容・主張、製作国、作品規模もまた時代の
流れという巨大な大河の中に"在る"に過ぎない。

 

我々は、何を観て、誰に、なぜ、拍手を送るのか?どんな作品を、どうして、
作るべきなのか?または作ってはいけないのか?

 映画は"それ"について時に語り、時に沈黙し、消えていく。或いは"消されて"往く。

 

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2011年12月29日 (木)

観_11_12_28

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 都内某所で映画を観る。ここ最近は朝がなかなか冷え込みが
厳しく個人的には冬らしくてよろしい。が、被災地では仮設住宅に
給湯器も禄に付いていないらしくご苦労も多いことだろう。大震災に
大人災がひたすら追い討ちをかけ続け日本中を蝕んでいる。

 今年一年を総括するというわけでもないが、ただひたすらに
心を落ち着けることに腐心しつつ劇場に向かう。すでに民族大移動
が始まっているのか人が少ない印象を受けた。

 鑑賞した作品は70年代前後の邦画を二本。二本目を観るまでは
時間にかなり余裕があったので、電車で移動して別の劇場に前売り券を
買いに行ったり、ラーメン食ったりと休日らしく過ごす。近くに来たときに寄る
中古ビデオ屋で久しぶりに一本某作品をゲット。DVDじゃなくてあくまでも
ビデオであることに蒐集魂が揺さぶられたのと調度観たいと思っていた作品でも
あったので即決断。値段は1000円ちょっと。このVHSの"厚み"がいいね。

 二本の作品はどちらも映画の本質である"時間の経過"が主要
テーマの一つであり全く異なるアプローチで描かれ且つどちらも良作
であり、満足した。日が暮れて劇場を後にすると数年間も過ぎたような
気になった。激動の2011年よ、さらば。



 
 







 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年12月26日 (月)

観_11_12_25

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 都内某所で映画を観る。巷に出たついでに幾つかの
所要を済ましてしまうつもりが、忘れたまま帰宅。大した
用事でもないのでどうでもいい。数日以内にやればよい。

 鑑賞した作品は第二次大戦終結後まもない時期の洋画
を一本。数年前ならば製作年のことなど何も考えずにただ
無邪気に作品自体を楽しんだであろうが、当時の自分の国の
状況と作品で描かれている内容を相対的に捉えつつ感慨を
持っての鑑賞。個人的な思惑の域を出ないことも理解しつつ。
それはそれとして、澱みの無い演出とそれを支える音楽や
舞台のバランスの良さに関心し楽しめた。

 日本の国政を占拠している連中がまたしても破滅への
カウントダウンを大きく進めてくれてしまった。メルトダウン級の
原発事故に匹敵する。政府要人を両側に挟んで日本の国旗と
某国の国旗が交互に立つ様はまるでいつか見た光景と
だぶらせるのは自分だけではあるまい。内容も誰もが予想
した通りかそれ以上の"最悪"のものである。言論・表現の
自由も国家システム・領土の自主独立も風前の灯か。。
今夜は一体、何十万、何百万の日本人が怒りと絶望で
眠れないことであろうか。まったく迷惑至極・有害無実な連中
である。


 
 







 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年12月25日 (日)

観_11_12_24

観_11_12_24  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。ここ一週間ほど主に仕事関係で
感情の起伏が大きくなってしまっていたのがやや落ち着いて
いたがまた少しぶり返してしまった。過去の経験則に従って
何とか落ち着けて劇場へ向かう。

 巷は毎年のことだが、"今日"という日に対してすでに喪失感
というか終わった感が老若男女に漂っている感じ。しいて言えば
20代の若い女性に目立つように思う。理想と現実のギャップに
戸惑いながらも何かしらの勝負に打って出なくてはならない唯一の
世代だからか。自分は多くの点において今日と明日という日について
語る資格は無いのだが。

 鑑賞した作品は70年代とゼロ年代の邦画を二本ほど鑑賞。
二本目は一回観ているのでよしておこうかと思ったが良い作品で
あったので再度鑑賞。勝手に謎だと思ってみた描写が単に自分の
見落としてであったことを確認すると共に新たな感動もあった。

 ちょっとした良い出来事もあり、それなりだった一日。無数の
扉を押し開けて後戻りの出来ないのが人生であって、あちらの
扉を開けていれば今頃どうなっていたかと思いつつ。こちらの
回廊もまんざらでもないと思いつつ、目の前の扉を開けることに
やっぱり躊躇してみたりしつつ、、明日という日はやって来る。

 今日という日に日本の多くの人が持つであろう喪失感は例年
以上であることは間違いない。理由も例年になく共有できている
のではなかろうか。何とかしたいところである。








 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年12月23日 (金)

映画「ゴダールの映画史」

2010年に見た映画(三十一) 「ゴダールの映画史」

原題名: Histoire(s) du cinéma
監督: ジャン=リュック・ゴダール
出演: ジャン=リュック・ゴダール,ジュリー・デルピー,サビーヌ・アザマ,
アラン・キュニー,ジュリエット・ビノシュ,セルジュ・ダネー,ジャン=ピエール・ゴス
時間: 268分 (4時間28分)
製作年: 1998年/フランス

2010年 3月鑑賞
(満足度:☆☆☆☆☆+)(5個で満点)

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存在そのものが「映画史」であると言っても過言ではない賛否両論の
巨匠ジャン=リュック・ゴダールによる8章立ての映画講座であり、映画入門。

 

第1章 (1A) (51分) 「すべての歴史」
第2章 (1B) (42分) 「ただ一つの歴史」
第3章 (2A) (27分) 「映画だけが」
第4章 (2B) (29分) 「命がけの美」
第5章 (3A) (27分) 「絶対の貨幣」
第6章 (3B) (27分) 「新たな波」
第7章 (4A) (28分) 「宇宙のコントロール」
第8章 (4B) (37分) 「徴は至る所に」

 
  

1A 「すべての歴史」   
1B 「ただ一つの歴史」

 

 1Aと1Bは綺麗に補完し合うような構成になっている。
1AはJLG(ジャン=リュック・ゴダール)監督自身の思索にふける姿と
古今東西の名作・大作が怒涛の勢いで展開されていく。1Bは、これまた怒涛の
音楽に乗せ血まみれのヒロイン、感情を爆発させる主人公、卑猥な映像が
繰り返したたみかけるように流されていく。言わば1Aはhitoryという箱(=映像)で
あり、1Bはその箱の中に詰まったmusicまたはemotionということになる。
チャップリン、エイゼンシュタイン、ヒッチコック、バスター・キートン、Newシネマ、、
    
  
 『映画はキリスト教と同じだ。歴史的事実に基づいていない

 ただ物語があり、ただ信じろと言う。』

 

 『映画が芸術であったことはなく、技術ですらない。』

 

 「映画」がもし「芸術」であれば、ディレクターズカット版や完全版など有りえない。
映画はただ映画でありさえすればいいのだから。しかし映画は『商品』であるから、
利益のためには台詞も音楽も変えられ長さも内容も変更され、性的なシーンは
客層に応じて長く、または短く、あるいは全削除され提供される。

 「映画」が「技術」であれば、技巧の優れた映画こそNo.1にならなければ
ならない。しかし、そんなことは有りえないことは周知の事実である。

 ∴映画は芸術ではなく技術ですらない。JLGの言うことは正しい。

 
 

2A 「映画だけが」
2B 「命がけの美」
3A 「絶対の貨幣」
3B 「新たな波」

 

 「映画」という遠心分離機または集積回路に翻弄され、その回路の"杜"に
迷い込む人間達をコラージュのように、ただひたすらに散りばめていく。
幾つもの挿入される曲の中で一つの曲が優雅に流れるが何の作品で使用
されたのかどうしても思い出せず観ていて苦しんだ。

「現金(げんなま)に体を張れ」(1956)、「戦火のかなた」(1946)、
「アンダルシアの犬」(1928)、「フランケンシュタイン」(1931)、「罪の天使達」(1943)、、
フランス映画、イタリア映画、アメリカ映画、邦画、
マカロニウェスタン、小津、、

 
 

4A 「宇宙のコントロール」
4B 「徴(しるし)は至るところに」

 

 最後の二編は完璧に揺ぎ無く独立した「作品」として成立している。
澱みのないまるで独経のようなJLGの呟きと、明滅する台詞の断片と、
現れては消えて往く作品郡。

 ヒトラーも、アレクサンダー大王も成し得なかった「無数の民への君臨」を
映画はなし得た。たった一つの、数秒のシーンを世界中の人々が記憶し、
反芻する。

 

 『政治的奴隷には道徳的自由が必要』

WWⅡの終焉、イスラエルの誕生、絶え間ないテロルの世界へ、
チェ・ゲバラ、ゲリラ、戦後社会の欺瞞、、
女、女、女、、、、、

 

 多分、JLGは"ドS"で"ドスケベ"であろう。JLGの諸作品に出てくる女は
ほとんど全て過剰なまでに美しく悩ましい。そして"ドS"で"ドスケベ"であろうが
これほど品のある男もまたそうはいないであろうと思う。

 JLGは「映画とセックス出来るなら」躊躇無く"する"であろう。
そしてJLGは時代に枕して、映画と寝た男なんだ。
羨ましい。

 

『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』
『政治的奴隷には道徳的自由が必要』


 
 

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2011年12月20日 (火)

観_11_12_19

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 都内某所で映画を観る。個人としては、「どうってことのない」
週の始めのある一日であった。仕事もまあまあ順調であった。
会社を出るタイミングが僅かに狂ってイラつきながら神社で
忙しく御参り。集中してお祈りできなかった。

 鑑賞した作品は40年代前後のアメリカ映画を数本。ここ数年間
考えてきた事について頭を整理するのに役立った感じ。やはり、
人間は自発的に明確な目的を持って生きることは困難なのである
ということも再確認した。

 随分前から今日という日が来ることは折込済みであったせいか
大局的にはとりあえず世の中の動きは静かだったのではなかろうか。
ユーロの崩壊が止まらない方が今後のダメージの予想が付かず、
よほど深刻なようだ。新橋で予定されていたある男の演説に、多くの
人々が3.11大人災以降のふざけた国政に怒りをぶつけるべく集まった
ようで大変に頼もしいもっともっと怒るべし!!日本人!もうすぐ何も
かもが手遅れになってしまうかも。。災禍を被るのは我々の子供達
である。

 明日も普通に働くとです。某国が暴発しようともユーロが消滅しよう
とも、少なくても明日という一日くらいは会社あるやろうからね。








 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年12月18日 (日)

観_11_12_18

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 都内某所で映画を観る。「何も考えないでよい完全なるオフ」
年内は今日で最後と思われ、自宅で何もしないで過ごそうかとも
考えたが意を決して家を出る。いつも見慣れた通りの風景が、落ち
葉と最後の紅葉のせいで美しく見える。昨日のんびりできたせいか
体力と気力も少し戻った感じでとても有難い。

 鑑賞した作品は60年代終りの邦画を二本。今という砲弾無き
戦争の時代からは最早想像も着かない平和と呼んでいいのか
わからない「侵略される心配の無い風景」の中での人間達の
狂騒振りに呆れるような羨ましいような。作り手は当然の如く
何事かの危惧を感じて作品を創っていて、その危惧の方向性は
大いに共感できるもので良かった。

 あるネタが二つほど浮かぶけど、自分一人の力ではどうにも"形"に
昇華できそうもないので"換金"できる手段はないものかと思案しつつ
帰宅。

 あと少しで激動の2011年も終り。日本人の皆さん、他国の文化と
歴史を尊重する心ある世界の皆さん、砲弾無き戦争を、あるいは
砲弾を交えた戦争を生き抜いていきましょう。嘘と"タカリ"を決して
許すことなく、事実を地道に積んでいけば次代に繋がるはず。








 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年12月17日 (土)

映画「濡れた荒野を走れ」

2010年に見た映画(三十) 「濡れた荒野を走れ」

原題名: 濡れた荒野を走れ
監督: 沢田幸弘
脚本: 長谷川和彦
撮影: 山崎善弘
音楽: 多摩零
出演: 地意武男,山科ゆり,川崎真樹,井上博一,高橋明,久松浩介
時間: 73分 (1時間13分)
製作年: 1973年/日本 日活

2010年 3月鑑賞
(満足度:☆☆☆☆☆)(5個で満点)

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 警察官でいながら悪事に手を染めて、最早引き下がれない男達と
実直過ぎるがゆえに警察官という仕事に悩み抜き、悪事を重ねる
人間達が同じ立場にいる事を知ったが記憶を無くし、あても無く
彷徨う元警官の男。"悪党"達は記憶の無い男を追跡し闇に葬らねば
ならない事情があった。。

  

 エロ・グロ、バイオレンス・アクション、ナンセンスがほどよく詰まって
いて、これらのエッセンスの絡み具合が実に巧な脚本も映像もとっても
Goodなかなりよく出来た秀作。

 聖職者や法を守る側にいるはずの職業の側に"あからさまに"
そうではない人間達で占められているとしたら?という"if(もしも)"で
あって欲しい"if"をベースにして、冒涜に次ぐ冒涜の描写がこれでもかと
小気味良く続いていくが、が裸だとか血とか内臓とかの安易な一般論的な
タブー映像ではなく

「"誰"に"何"をさせるか(させてしまうか)」という物語の構成で映像を見せて
いるのは大きな賞賛に値する。本作は相当な低予算の作品に見え実際に
そうあのであろうが(本質的に過激な内容であるので製作会社である日活に
嫌がらせを受けたとか)、実に頭も"体"もよく使って撮られていてそう簡単
には作れない立派な『プロ』の作品である。

 絡みのシーンも別にいれなくてもいいんじゃないのという"隠し"(真っ黒な
塗りつぶしの帯)が挿入されつつも「別に入れなくてもいいじゃん」と自分達で
吐き捨てているかのごとく適当な位置に無造作にしかし計算されて効果的に
且つ投げやりに配置されていてとても楽しい。

 全くもってどうってことのないロケのシーンもきちんと物語上の緊張感が
漲っているのは主要キャストもまたプロの俳優であり台詞は少なくても(無くても)
それぞれ与えられた役のオーラを出しているからである。追う側のリーダー格の
男は、かつては記憶を無くした男を尊敬し憧れていた。そして、尊敬していながら
説諭された事を心のどこかで"憎悪"にすっかり転嫁してしまっている。こうした
人間の個性が少なくても良いから描かれてこそ、山科ゆりの美しい裸体が
よりエロ度を増して、後半のとんでもない救いがたい展開も単なる低予算作品の
トンデモ映像以上の"何か"を観客に突きつけることになる。

 映画を撮りたくなること必定な作品。若者はこれを観て、誰とでもつるんで、
何でも良いのでヤサグレタ気持ちを映像にぶつけたらよろし。

 「映画」というのは内に向かって"閉じて"作品として成功するか、外に向かって
"開けて"成功するかのどちらかであることが多く、ほとんどはそのどちらかでも
なくて失敗し、消えていく。成功した作品もどっちに向かっているのか、製作者側の
意図通りにはいかずに作品自体に問わなくては判らない。本作は外(世界)に向かっ
"開かれている"成功作ではなかろうか。

 脚本を担当している長谷川和彦は「青春の殺人者」(1976)を監督して若くして
圧倒的な支持を受けたようだが、現在は長い沈黙期間に入ってしまっているようだ。
wikiによれば、長谷川は相米慎二・黒沢清等を業界に引っ張りこんだ人間であり、
昨年12月に惜しくも逝去した池田敏春の超傑作「人魚伝説」(1984)を生んだ
ディレクターズ・カンパニーの設立にも関っている。本作の出来の高さを含めて
邦画史に大いに貢献していると断言できるであろう。復活が待たれるところだ。

 
 

「おじさんも、可哀相」

みんな、みんな可哀相

今日も、明日も、男も女も、老いも若きも、"濡れた荒野"走れ!

  

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2011年12月13日 (火)

観_11_12_12

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 都内某所で映画を観る。先送りに出来る物は全て先送り
とし、謝って済むものは謝って済ませて、どうにか今年の残りの
仕事の算段をつけて余裕シャクシャクとまではいかないが、
ちょっと一息。とりあえずの無事を感謝して神社で御参り。

 鑑賞した作品は戦前のドキュメンタリー作品。今現在の
いわゆるドキュメンタリー的な系譜の先駆的作品とのことだけど
よく出来ているせいなのか、自分の目が濁っているだけなのか、
大きな感慨も持たずに淡々と鑑賞。結構長く感じた。ゼロから
素材を作りこまないという点以外は、観る側にとっては、ドキュ
メンタリーとフィクションの境目というのは実は相当に曖昧で
あることがよく判った。

 来週以降をそれなりに苦しいことばかりとならないように乗り
切るために今週は大いに頑張らねば。 





 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年12月11日 (日)

リーマン戦記(25)

リーマン戦記(25)
気分はまるで幕末の志士

 
 

 数ヶ月前から慎重に模索してきて根回しもそれなりに済まして
いたとある事をサクッとやってみた。今日のところはほぼ完勝という
ところだが、言ってみれば、単に急襲が成功したに過ぎないので
あって、本当の"戦い"はこれからであるということもまた嫌という
ほど思い知った一日であった。

 事態は予想はしていたが、想像以上に酷い展開を迎えていて、
維新が成った後の自分の功名した姿だけを今日まで安直に想像して
たわけだが、相当に深部まで根腐れが起こっているようだ。

 

だまりのがもう文字通り立ち行かないその理由は幾つもあり、
単に誰かを悪と決め付けて糾弾するのはいかにも容易い。そして、そんな
容易い事で維新が成るのであれば、それでよかろうと思い。事実そんな
もんであろうと"高"をくくっていた。しかしどうも、そんな事ではとても
済みそうにない。

 体制側の反体制側への周到な攻撃。反体制側の蜂起。反体制側
は決して一枚岩とは言い難く、"敵"はそこを知ってか知らずか、適確に
老獪に打ち抜く。蜂起した側は長期戦となれば疲れ、自己陶酔にも
陥る。日本特有の滅びの美学の甘美なる誘惑も体制側に常に優位に
働く。

 いつか来た道をなぜか繰り返してしまう集団の中で自分の立つ位置は?

 味方には勿論敵にも有能な人間はいる。そして、実は敵も味方も、
そんな者は一人もいやしないのかもしれない。それこそ、ただの自己陶酔
に過ぎないのかもしれない。

 "玉"を獲るのは一体なのだろうか?今のところ判らない。理由は簡単で
獲り合いを演じている双方が同じ船に乗っていて、その船はご他聞に
漏れずに「順調に沈みつつ」あるからである。その沈み方は明らかに
加速度を増して、船の傾きも顕著になりつつある。

 

長い夜が明けたその時、生きて陽の光を浴びる者はいるか?

 

その眩しい光の中に自分はいるのか?いないのか?

 

己の剣と、その腕に聞け!!(゚д゚) ← 完全なる自己陶酔

 
  
 
 
  

リーマン戦記の主要なテーマで私の主戦場たる
『上司と僕と時々社長』の観点から、おさらい。

第1ステージ: コキ使われる   →  上司の圧勝×    (ーー;)
第2ステージ: 充実感みたいな→  一応勝利宣言◎(^-^)Y
第3ステージ: これまでの非礼を詫びるか?押し切るか?(@-@)→  勝利宣言◎(^^;)Y
第4ステージ: 立場逆転?? 上司を越えるか?追い出すか?←今ココ
第5ステージ: 未知の領域。リーマン辞めますか?それとも??←もうすぐココ(?)

というわけで現在、辛くも?2勝1敗という所であると一応宣言したい。。←弱気

 
 
 




 
  
   
  
   
   
   
   
   
  
  

<=== Back                      To be continued ===>

 
 
 
 
 

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2011年12月 5日 (月)

観_11_12_04

観_11_12_04  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。微調整を怠ることなく続けてどうにか
回してきたつもりであった「日々の生活」という名の歯車であったが
ここに来てまたドシドシ狂い、悶絶気味且つ七転八倒の一週間だった。
泣く泣く数本の映画鑑賞を諦めつつ、生き抜く。

 鑑賞した作品は1970年代初頭のアメリカ映画。人々の情報に
対する飢えと供給のバランスが合っていなかったゆえの幸福感
に、時代は異なるが自分の青春時代も重ねて思い出に浸った
100分弱。後半の展開に少しだけ泣く。

 何がいけなかったのだろうと思い、何もいけないことなどなかっ
たと思い、戻りたいと思い、二度と体験したくもねぇとも思う。

 今週の形振り構わぬ無茶振りの"ツケ"はまた来週かその来週に
結局は自分で払うことになるのだが、とりあえず今日、映画が
観れればそれでいいのさ。



 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2011年12月 3日 (土)

映画「海の沈黙」

2010年に見た映画(二十九) 「海の沈黙」

原題名: Le Silence de la mer
監督: ジャン=ピエール・メルヴィル
脚本: ジャン=ピエール・メルヴィル
撮影: アンリ・ドカ
音楽: エドガー・ビショフ
出演: ハワード・ヴェルノン,ニコル・ステファーヌ,ジャン=マリ・ロバン
時間: 86分 (1時間26分)
製作年: 1947年/フランス

2010年 3月鑑賞
(満足度:☆☆☆☆☆)(5個で満点)

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 ナチス・ドイツの占領下におかれたフランスのとある地方都市。
老人と姪の二人にとって、ただ唯一残された『抵抗』は、日を境に
一方的に下宿人となったナチス将校の男を毎日ひたすら"無視"し、
自分達以外誰もいないように振舞うことだった。そんな二人に
対して、徹底的に無視されていることをまるで意に介さない風を
装い、朝晩の挨拶をし、二人に向かって話し続ける男であったが、、

 

 前半はパーフェクトの出来。将校の男のどこまでも"礼儀正しい
厚かましさ"に次第に自分達の人間としての善なる心を巧に、狡猾に
突き動かされ、心を開かざるを得ない二人の葛藤にひたすら胸が
詰まる展開が続く。まるでお互いにノックアウトを狙わなずに心理戦で
静かにラウンドを重ねていくボクシングの試合を観ているかのよう。

 後半は、このド厚かましいとも思える将校が実は、
『本当にフランス文化を愛している』
ことを自覚し、自らのナチスの将校という立場の存在意義の無意味さ
と罪深さを知ることになるのだが、はっきりいって"ウブ"というもの
であろうと思ってしまった自分の方が"悪"なのであろうか。

 作品の時代背景の当時、消去法的に良かれと思いつつ占領を受け
入れながら、ナチが力を入れたであろう人間の行動様式を充分に研究
した上での「精神面への執拗な暴力」に徹底的に欺かれ、財産も命も
奪われた人々は相当数いたのだろうが、逆に本作に描かれているような
ドイツ将校のような男はただの一人でもいたのかと訝しくなってしまう。

 所謂、「ナチ物」の一作品とすれば、本作は他を大きく引き離して
暫定一位の作品ではある。どんな人間にも少なからず入っているはずの
稀少なSomethingを描こうとしている。その大事なSomethingに気付かずに
観たような気もして、もう一度観返したい。出来れば劇場で。

 「残酷な命令に従わない兵士は美しい」

パラドックス性を秘めた言葉だ。
我々の認知し関与するほとんど何もかもが我々が自らの手で犯している
事であり、その何と愚かしくて素晴らしいことか。

 ごく近い将来の、あるいは現在の日本を描写している作品でもある。
気がつきましょう。手遅れにならないうちに。手遅れになったとしても。
「強姦」はどんなに弁解しようが、「強姦」に過ぎないということを。

人間は残酷で、不寛容で、意地汚くて、人生は過酷だ。
映画は残酷で、稀に美しくて、我々の世界を映す鏡だ。

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