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2013年5月 9日 (木)

映画「ストライキ」

「ストライキ」
Стачка
Stachka

監督: セルゲイ・M・エイゼンシュテイン
脚本: ワレリイ・プレトーニョフ,セルゲイ・M・エイゼンシュテイン,
グリゴーリ・アレクサンドロフ,イ・クラブチュノフスキー
撮影: エドゥアルド・ティッセ,ワリシー・フワートフ
美術: ワリシー・ラハリス
出演: アレクサンドル・アントノーフ,ミハイル・ゴモロフ

時間: 86分 (1時間26分)
製作年: 1925年/ソ連

(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点) 
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 "モブシーン"だけなら自分が観たエイゼンシュタインの作品の中では
一番の出来かもしれない。芸術がかっていなくて、大衆の持つ巨大な
潜在的エネルギーの爆発という意味での本質を捉えているような気がする。

 中盤の「何もかも失」ったか、あるいは「最初から何も所有していない」人々
どこまでもアナーキーにお馬鹿な騒ぎを延々としてまるで白痴のように喜んでいる
シーンはエキセントリックでアバンチュールという表現になるのだろか。悪乗りして
いてエイゼンシュタインが楽しく"乗って"撮っているのではなかろうかと勝手に
推測してみた。「THIS IS ENGLAND」(2006)で少年達が無人の家で大はしゃぎして
騒ぎまくる楽しい名シーンを思い出した。

 エイゼンシュテインの映画の底には『人間』の不可解さが面白くてたまらず
訳のわからない"体制"の中でもがくわけの判らない生き物としての人間として、時に
幾何学的な時に混沌としたカオスな群集シーン(モブ)に結実するのではなかろか。

 この作品はエイゼンシュタインにおける"以前"と"以後"の中間位置にある作品
であると思える。エイゼンシュタインは本作以降の作品では数多くの枝葉を削ぎ
落としていっているのではないか。

 登場人物達がめったやたらと蠢き駆け回る群衆劇を見ていると、暴動をする側、
それを鎮圧する側、どちらかに居てどちらかに寝返る者、赤ん坊から老人まで
フィルムに映る全ての人が今となっては全員悉く例外なく命という電池は尽き、
鬼籍に入っているいることにただひたすらに無常を感じる。

 労働者と資本家という立ち位置が先にあって、バランサーとしての、箱としての、
仕組みとしての、大気としての『法』が存在しないあるいは蔑ろにされ過ぎているから、

だから

こんなに酷いことになる。

言ってしまえばぞれだけのことで、『法』が存在しない以上は資本のルールで
縛られる資本家を打倒して労働者が勝ってしまってもより凄まじい惨禍が起こることは
想像に難くない。法の何たるかをまるで理解せずに幼稚極まる正義感とすら
呼べない浅墓な感情だけ
でシステムを操作しようとすると
外交・国防政策は
機能停止に追い込まれ、行政的な壊疽により全システム(=国)が危うく壊滅の手前まで
暴走した某国の政権交代とは言えなかったお粗末なクーデターはそのケース・スタディ
の一つといえる。
 

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