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2013年7月20日 (土)

東京漂流某日(十)

東京で大した野望も無くどうってことなく生きる
或る男の漂流記・・・

chapter10:  前哨戦(3) 君は、"萌えて"いるか?

 「黒猫さん、"萌え"って知っていますか?」
貂坂は、屈託の無い笑顔で突然聞いてきた。

"燃え"ですか?"燃える闘魂"の?」
黒猫は訳がわからず、貂坂に返した。

「ヤダナー黒猫さん。違いますよ~。"萌え"です。"萌え"
貂坂はなぜか得意気な表情でまた笑って聞いてきた。

「"モエ"ですか。"モエ"ねえ。。判りません。何ですか、ソレ?
黒猫にはさっぱり意味が判らない。この当時、"萌え"という
言葉はまだ巷に浸透しておらず、普段の会話で使われることは
なかった。貂坂は勝ち誇ったように、"萌え"について熱心に語り
だした。

「、、、つまり、アレですか。"萌え"というのは、可愛いと思う
対象を"愛でる"ということとほぼ同義語なのでは、、」
一通りの説明を聞いて、黒猫は改めて貂坂に応えた。

「違うんだなー。黒猫さん。全っっ然違うんですよ。"萌え"わ!
貂坂は、まるでテレビドラマで見るようなオーバーアクションで否定した。

「まあまあ貂坂君。君の十八番の"萌え"の講義はまた今度で
いいじゃないか」
犬鷲がなかなか前に進まない黒猫と貂坂の会話を止めに入った。

 その日は、月に数回ある作成したコードの納品の日だった。黒猫は、
犬鷲から納品に同行するように指示を受けてから二回目の"納入"だった。
貂坂は、会社の先輩ではあるが、年は黒猫より一つ上なだけだ。
極めて穏和な性格でその点が犬鷲に好かれているらしく、納品の際には
ほぼ必ず同行していた。

 

「今日は、誰がやる?」
犬鷲が貂坂に聞いた。"誰がやる"とは、納品先での作成したコード
内容の説明と、その実演のことである。

「誰がやるって、私はこの間、やったばかりじゃないですか」
貂坂は朗らかに笑った。二人の打ち解けた会話のリラックスぶりに
黒猫は犬鷲と貂坂の信頼関係と付き合いの長さを感じた。

 「、、、じゃあ、今回は、黒猫君、やってみますか?
犬鷲は黒猫に提案した。まだまだ初心者の域を出ていない自分に
"当番"の割り当てが振られることなどあり得ないと端から思い込んで
どこか人事で二人のやりとりを聞いていた黒猫はやや面食らったが、
拒否する理由は何もなかった。

「構いませんが、私で大丈夫でしょうか?もしミスをしたら、、」
黒猫は、犬鷲と貂坂に自分の力と経験値の不足を強調した。

「黒猫さんなら、大丈夫。きっと上手くやれますよ」
貂坂は即座に答えた。

 簡単な手順の流れと"想定問答"への回答の打ち合わせを終えて、
三人は地下鉄を何回か乗り換え納品先の会社に向かった。パソコンと
納品コードの説明書を詰め込んだ重い鞄を持って、ネクタイを締めて、
"製品"の納品に向かって歩いている自分の姿が、つい最近まで昼夜を
問わずウェイターや皿洗いをしていた黒猫には何だか可笑しかった。

 「本日の納品分の説明は、こちらの黒猫が担当します。それでは黒猫君、
よろしくお願いします
犬鷲は、自分達の納品の確認作業を担当するいつもの相手に向かって
挨拶をそこそこにして黒猫に振った。

それでは、始めさせ頂きます。まず、、」
黒猫は、これまで見てきた犬鷲と貂坂の身振り手振りを必死で"コピー"
して説明を開始した。キーボードにタッチする指先が、僅かに震えていた

「、、、以上で本日納品分のコードの機能説明を終りますが、何かご質問は
ございますでしょうか?」
黒猫は、相手の二名に向かって訊ねた。

「そうですね。大体、大丈夫な感じですね」
二人は目を合わせてごく小さな声で囁き合いゆっくりと口を開いた。

「二つ目のコードと、四つ目のコードを、もう一度動かしてみてもらって
よろしいでしょうか?」

「判りました。それでは、」
黒猫は、犬鷲の目と表情を確認しながら、操作を続けた。

「OKです。ありがとうございました」
幾つかの補足の質問が出たが、犬鷲が適時フォローすることで、作業は
無事に終り、正式な契約の履行となった。黒猫は指先の汗をハンカチで
拭い、キーボードにも水滴で光る部分を見つけて同じように拭うと電源を
落とし、パタンと蓋を閉めた。犬鷲と相手先の二人が書類と納品物の最終
受領の為、別室に姿を消すと、貂坂は黒猫の肩をたたき表情で健闘を
讃えた。

 

 「どうして、駿さんは納品には行かないんですか?」
帰りの電車の中で黒猫は犬鷲に聞いた。黒猫の見るところ、駿が犬鷲と
外出するところは見たことがなかった。

「駿君は技術的にはとても素晴らしいのですが、"ああいう場面"には向いて
ない人なのです」
犬鷲は窓の外を眺めながら応えた。黒猫も、それ以上は質問しなかった。

「そういえば、貂坂さん、"萌え"についてですけど、、」
無事に大役を果たして息をついた黒猫は、解決していないキーワードを
思い出して貂坂さんに"問答の再開"を打診した。

「黒猫さん、納品も無事に済んだし、今日はもういいじゃないですか
貂坂は、どこまでも真面目に対応しようとする黒猫の態度に急に恥ずかしく
なったのか、顔を赤らめて笑った。

「じゃあ、軽く反省会を開いて帰りますよ。貂坂君の萌えの講義の続きも
聞きしょう」
犬鷲は、冗談を交えて上機嫌に言った。

 

「、、やっていけそうだな」
黒猫は、そう思いながら、犬鷲と貂坂の後ろを追った。

 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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