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2013年11月16日 (土)

映画「ソーシャル・ネットワーク」

「ソーシャル・ネットワーク」

原題名: THE SOCIAL NETWORK
監督: デヴィッド・フィンチャー
脚本: アーロン・ソーキン
撮影: ジェフ・クローネンウェス
音楽: トレント・レズナー,アッティカス・ロス
出演: ジェシー・アイゼンバーグ,アンドリュー・ガーフィールド,ジャスティン・ティンバーレイク

時間: 120分 (2時間0分)
製作年: 2010年/アメリカ

(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)
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ハーバード大学に通う(見た目は)ごく普通の青年マーク・ザッカーバーグ
(ジェシー・アイゼンバーク)は彼女に振られた腹いせに構内のデータベースを片っ端から
ハッキングしてキャンパス中の女学生の履歴を盗み比較して優劣を競うシステムを
公開して憂さ晴らしをする。男子学生等は熱狂したが、女性からは彼らは軽蔑の
対象となる。その騒動を見ていたウィンクルボス兄弟はマークの腕を認め"あるシ
ステム"の構築を依頼する。マークはほどなく親友のエドゥアルド・サベリンと共に
"ザ・ソーシャル・ネットワーク"を公開する。そして、それはマーク・ザッカーバーグと、
周辺の人間の何もかもを根底から覆す"旅路"の始まりだった。。「フェイス・ブック」を
世に送り出した実在の人物を主人公にして描き出される青年達の「群像劇」。

 

 幾つかの点で「普通の映画」だと思った。ここで言う「普通」という意味は、

監督・脚本・撮影・音楽・美術・編集・キャスティングそして演じた俳優達"全てが
及第点"であるという意味の『普通』。

 そして、アカデミー賞のレースを序盤で席巻して、大いに賑わせた理由はとても
単純で映画を構成するファクターがほぼ全て及第点の出来であり、且つ題材が
トレンドに乗っているという優等生振りにあったことに他ならない。

 映画の製作工程において、ソフトとハード両方の技術面がここ十数年で恐ろしく
向上した点が映像の二次加工・三次加工・四次加工を得意として世界から賞賛を
浴びてきたデヴィッド・フィンチャーと、撮影担当のジェフ・クローネンウェス等にとって、
これらの「ベクトル」の全てが良い方向に働いたということの結果が本作公開時の
一連の狂騒と言ってよい"騒ぎ"であったと思う。

 実際、コンピューターとネットを駆使するという以外は古典も古典な物語
(友情・信頼、やがて起こる裏切り)を「映像の魔術師達」が撮るとごく何気ない
シーンもやたらとポテンシャルをアップして観ていられるのだと鑑賞中に何度も思った。
観客は透明度の極めて高い、何m先もクッキリと見える海中をスキューバーダイビング
をして楽しむように物語の登場人物達のファッションや小道具は勿論、かつては
嘘くさい適当なアルファベットの羅列で良かったパソコンの画面の一行一行のコードの
内容までも「凝視して」楽しむことが出来る。

 個人的に楽しんだのはウィンクルボス兄弟が出場するボートの大会のシーンで、
このシーンは恐らく、ウィンクルボス兄弟と、群集と、会場、その他の構成するパーツを
何十にも細かく分けて完全に分離して別個に撮影しているであろうということと、最終的に
出来上がった映像がごく自然であること。二昔ほど前であれば主要登場人物とエキストラ
くらいは当然分けて撮影するだろうが、広大な会場はそれなりに回ってロケハンをして、
天候の具合等も気をつけて馬鹿にならない費用を投入して撮影しなければならなかった
だろう。それが今や、往時とは考えられないほど小規模な撮影で済み、臨場感は
およそ全て撮影完了後に監督等と優秀なオペレーターがコンピュータを駆使してポスト
プロダクションで一から"作りだす"ものとなった。

 しかし、観客は本編を鑑賞した後に当然のようにDVDで特典として付いてくる
膨大なメイキング映像や監督等のインタビューを聞いて、自分の想像以上に"ほとんど
何もかも"がバーチャルに作られていることを知った時、感動するだろうか。あるいは
落胆するだろうか。。個人的な意見としては大きな方向性とは最終的には成りえ
ないと思う。

 本作の興行的な成功(しかも洒落にならない大成功)の大きな秘訣は最新且つ
ホットなツール(=SNS)をテーマにしたことではなく、アーロン・ソーキンの手掛けた
脚本がコンピューターの世界に精通して巨万の富を何ら苦労なくゲットしていく
若者達も多くの人間とメンタル面において「何も変わることが無いこと」を丁寧に
描いていることではないだろうか。

 鑑賞を"楽しんだ"観客はほぼ例外なく登場人物達の相関図と感情の起伏の
普通性を我が事のようにロールプロイングゲームのように楽しんだはずだ。
だから本作はゲームを楽しんだ結果つまり登場人物達のその後や、描かれた
憎しみや和解の末に何がどうなったということには観客の心は向かないように
向かなくていいように作られ、ゲームが収束に向かった時点で速やかに映画
そのものも終了する。
物語の発端の意味や登場人物達の行動の背景にあるもの
はほとんど描く必要もなく観客はそもそもそんなかったるくて理解するものが
登場することは期待もせず『状況』だけが目まぐるしく変わっていき、その「速度」に
快感を感じる。

 マーク・ザッカーバーグを始めとする実際の人間達と作中のキャラクターの
違いを比較するのはほぼ無意味だろう。同じく実際のソーシャル・ネットワークと
作中の表現の違いや誤りを指摘するのも遊びとしての楽しむのは有りだが
それ以上ではないだろう。かなり昔から全世界で繰り返し起こってきた血気盛んで
一計を持つ人間達の出会いと裏切りと騙しあいを21世紀の今を舞台に描いたに
過ぎない。

 デヴィッド・フィンチャーを始めとして本作の製作に関った人々の賞賛すべき
功績は、膨大な予算と最新の映像テクニックを駆使して最新テクノロジーが
生んだ産物の一つ[ソーシャル・ネットワーク]について完全なまでにリサーチして
それらの労力の全てを

徹頭徹尾「ありふれた事」を再現することに費やした方向性の勝利と言えるであろう。

 そして、本作がヒットしたことで言えることの一つがあるとすれば以下のように
言えるのではないだろうか。

 人々は変革を望んでいない

仮に変革は望んではいても、自分"だけ"は安全な場所(拒否権を保持出来る
場所)にいたい"後ろ向きの変革しか"人々は望んでいない

 参加したこと(観たという体験)だけしか自慢できないような作品が氾濫するのであれば
(実際そうなっているのだけど)それは映画の「荒廃」または「レベルダウン」でしかないだろう。

 資金が続く限り、あらゆる方向に、洪水の如くに「映画」と称した『何か』が垂れ流されて
いく。そのうちに人々はいつのまにか「映画」と称することは止めて眼前の光景を体験する
『何か』に別の名前が付けられているかもしれない。

 いつの日か、観客は「アバター」と呼ばれるようになる日が来るのかもしれない。

 自分は、これからもずっと『映画』が観たい。優れた『映画』を。マイクロチップの中の
嘘映像だけを眺めていたいのではない。 

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