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2013年12月28日 (土)

映画「伊豆の娘たち」

「伊豆の娘たち」

原題名: 伊豆の娘たち
監督: 五所平之助
脚本: 池田忠雄・武井昭平
撮影: 池方敏夫・西川亨
出演: 河村黎吉,三浦光子,四元百々生,桑野通子,佐分利信,東野栄治郎
時間: 74分 (1時間14分)
製作年: 1945年/日本 松竹 [モノクロ] (16mm)

 

(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)
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結婚適齢期を向かえている二人の娘を持つ食堂を営む男(河村黎吉)の
家の離れに若く優秀な技師(佐分利信)が住み込むことになる。次第に
変化していく父親とその娘達の心模様を名匠五所平之助が暖かい
ユーモアを交えて描く。

 

 戦意高揚の為に作られたがお蔵入りとなり、戦後初の封切り映画
となった作品。

 戦時中の、しかも、戦局が悪化している最末期における作品だけあって
親に従う事を尊ぶ『孝』を露骨なまでに押し付ける演出が目立つが、同時に
作品そのものが持つクオリティは、検閲を超え、公開を果たすための"国
への迎合"のための演出をも高く超えて登場人物の細かい感情が表現
されており、そのために「忠」や「孝」を肯定する演出部分はとても浮いた
感じになっている。

 特にラストの父親の台詞(娘への孝のあからさまな強制)の演出は
普通の興行作品では絶対にあり得ないであろう『無粋の極み』であり、
傑作と呼んでも差し付けない本作を台無しにしてしまっていると言って
過言ではない。映画を侮辱する観ていてとても哀しくなるラストであった。
勿論、監督を含め製作者は全くもって不要且つ無様な台詞であることは
百も承知であったはずで、演じている河村黎吉や娘役の三浦光子も
内心では納得のいくものではなかっただろう。個人の自由意志よりも
家長の指示が絶対的に上にあるということを、作品を壊す域にまで
「敢えて描いている」ことが五所平之助を始めとする参画した映画人の
抵抗の一つなのではなかろうかと思うが、穿ち過ぎる見方であろうか。

 お蔵入りになった理由は単なる戦局の悪化による手続き上の問題
なのではなく、検閲する側にも映画に精通した上でチェックした人間は
当然いたはずであるから、観客にこの作品が提供される前の"闘い"と
"抗議"を見抜いた上での「お蔵入り」ではなかっただろうか。

 作品の骨子、妻を失った夫と二人の娘、若い男女の偶然の出会い、
ある種の長屋的な連続した人間関係の中で起こるトラブル、主人公の
男が酒癖が悪いことで発生していくカオス、、とても教科書的に出来事が
積みあがり、作品が綺麗に作られているのでこの「元の作品」に被せられる
「国策を推奨する」というスパイスがどこで効いているかとても良く判る
ようになっている。判るようになっていては良質のプロパガンダ作品とは
言えないのでこの作品はそういった意味では失格であり、お蔵入りとなった
のはやはり製作者側の恐らくは確信犯であるサボタージュが理由で
あっただろう。であるからこそ戦後の封切りも内容的に容易であった
ことも想像に難くない。

 プロの仕事であるからこそ、作品のエッセンスの分解が容易であり、
その容易である意図と製作された時代の背景との関係を楽しむのも
映画の醍醐味の一つであろうと思う。

 実力にしっかりと裏打ちされた軽妙な演技で何度か爆笑を誘ってくれる
主演の河村黎吉(かわむら れいきち)は演技力に定評があったが1952年に
胃癌で世を去っている。享年55才。もし長命していれば多くの作品で忘れ
難い演技を遺してくれたことであろう。

 幕末の比較的初期の時期に活躍した江川太郎左衛門(江川英龍)の
反射炉が劇中で一瞬だが登場する。佐分利信演じる若い技師が
「偉大な先輩」だと遠方に見える反射炉を眺めて呟くが、伊豆が舞台で
あること(江川太郎左衛門は代々伊豆の韮山を拠点に地域を治めてきた
名家)主人公が技術者としての誇りを持って生きていること、国策映画
であること(国産技術を讃える演出)を三つまとめて表現していて
"上手い"と思った。

 邦画の歴史を語る上で重要な位置にある作品であろう。

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