映画「アギーレ 神の怒り」
「アギーレ 神の怒り」
原題名: Aguirre, der Zorn Gottes
監督: ヴェルナー・ヘルツォーク
脚本: ヴェルナー・ヘルツォーク
撮影: トーマス・マウフ
音楽: ポポル・ヴー
編集: ベアテ・マインカ=ジェリングハウス
SFX: Juvenal Herrera,ミゲル・バスケス
出演: クラウス・キンスキー,ヘレナ・ロホ,ルイ・グエッラ ,セシリア・リベーラ
時間: 93分 (1時間33分)
製作年: 1972年/西ドイツ
(満足度:☆☆☆☆☆+)(5個で満点)
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16世紀の中頃、エル・ドラードを目指してスペインからアマゾンの奥地に
向かう征服隊はアンデス山脈を必死に越えようとしていた。本隊から周辺
状況の調査を命じられた分遣隊はアクシデントの連続の中で規律を失い、
副官ドン・ロペ・デ・アギーレの狂気の圧政が始まった。。
70年代前半の作品であるが、ゼロ年代の作品のような「新しさ」と「新鮮さ」
を感じた。例えば、同時代の作品「エル・トポ」(1970)には何とも言えない
懐かしさを感じる。しかしこの作品は『新しい』。
90年代以降の作品の方向性の一つである無駄を徹底的に削り物語の
"テンポ"を最優先にしているからだろうか。
『人間』を描く方向性の普遍性を余りに適確に過不足なく捉えている
ソリッド感が新しいのだろうか?
画面構成の見事さ
演者達の"間"と"呼吸"の自然さ
映像と物語の"行間"の適確さ
歴史を作ろうとする「人間」の迫真性
"アギーレ"という男の狂気とカリスマ・余りに決定的な欠点
集団の在り方
クライマックスの虚無感。あの世そのままの『無常』
クラウス・キンスキー演じる
狂気の男ドン・ロペ・デ・アギーレのキャラクター
造形(というかクラウス・キンスキーそのもの?)は完璧で、歴史上に"アギーレ"と
ほとんど同じといっていい人間は無数に出でて、幾多の人間を死地に貶めて、
あるいは状況と境遇によっては死地から救ったことであろう。
だから、"アギーレ"のような男はある時代では悪魔と罵られ、蛇蝎の
ように忌み嫌われたであろうし、ある時代では英雄にもなったことであろう。
本作における"アギーレ"は強かで計算高く、多少のカリスマ性も持ち合わせて
いるが、直情的で、外界に対する合理性・先見性は皆無であることが悲劇を生む
ことになる。しかし、実は、足りないのは"それだけ"とも言える。
威圧することにかけて天分を持ち合わせる"アギーレ"に渋々着いて来る面々は
心のどこかで一攫千金を狙っている。担ぎ上げられた新しい王も含めて適当な
ところまでアギーレに従ってどこかで離脱すればいいと打算で動いている。つまりは
いつの時代にも存在するごく普通の人間達だ。だから、人々は大変な距離を
移動していくが、そこで描かれる集団と空間は小さく、アギーレを含めて登場
人物一人一人が「歴史」という舞台を代表するキャラクターとなっているから、
90分強の上映時間ながら、集団のうねりは非常にダイナミックで観客は眼を
離すことが出来ずに、そのラストは悲劇的であるが、幾百、幾千、幾万の人間が
繰り返し踏んできた轍であり、普遍的で喜劇的ですらある。
だからこそ言いしれようもない『無常』を観客に突きつけ、観客はその無常に
心地よく酔う。
このままでは何も残らない。
征服さえ、しておけば歴史に名は残るのだ。
なんという『真実の一言』だろう。
たったこの一言の為にこれまで落命した人間はどれほどの数に上るのだろう。
たったこの一言の為にこれから落命する人間はどれほどの数に上るのだろう。
こん棒と石が
弓と矢に変わり、
銃器に変わり、やがて
マネーに変わっただけで
人間のしていることは根本的には
何も変わっていない。
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