映画「エル・スール」
「エル・スール」
原作: アデライーダ・ガルシア・モラレス
監督: ヴィクトル・エリセ
脚本: ヴィクトル・エリセ
撮影: ホセ・ルイス・アルカイネ
音楽: ヴィクトル・エリセ
出演: オメロ・アントヌッティ,ソンソレス・アラングーレン, イシアル・ボジャイン
時間: 95分 (1時間35分)
製作年: 1983年/スペイン・フランス
(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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夕暮れと深い闇、朝ぼらけ、光の変化がとてつもなく美しく、ただそれを観る
だけでも充分に価値がある作品。
物語の最初は、父親の視点から娘と妻を思いながら観て、次に妻の視点から
夫と娘を観て、中盤以降は娘の視点から娘と同じように父親の『謎』を追いながら
観た。
「家族」というもののある種の"おぞましさ"と、一私人の自宅という本人以外
にとっては"アウェー"である"おぞましさ"を存分に表現していて、こちらの観点
から観ても一見の価値あり。少年の頃にクラスメートの女子の家に招かれて
ノコノコと遊びに行った気恥ずかしいような、ソワソワ感を懐かしく思い出した。
「人間」には、大きな大きな謎があって
人間 = 謎
と言っても過言ではないのであって、『映画』というのは、大抵はその謎の
解決に挑もうとするか、解決案そのものを2時間弱で無理やりに描こうとする
無謀な行為なのであるが、本作の素晴らしさは
人間 = 謎
のままに一家族の姿を追い続けているということなのだと思う。
人間 = 謎
が最も無難な解であって、
人間 => [何かの答え]
という等式で物語を進めてしまうと途端にプロパーな匂いがどうにも
立ちこめるのであるが、本作やキェシロフスキあるいはタルコフスキー
といった巨匠達は
謎(=人間そのもの)
にどこまでも近づいては行っても、それを「解こう」などという行為はしようと
しないところに信頼のようなものを感じる。
本作も主人公の父の"大いなる謎"の展開方向について、安易な正解を
提示しないのだと判って安心して観ることが出来た。
父親は、運命のズレを甘受しようとしたが、出来なかった。
その鬱屈の蓄積は、妻と娘を苦しめ、その肉体と精神を本人達には無自覚に
蝕んでいく。
恐らくは、この夫婦は結ばれるはずではなく、娘は産まれてくる運命では
なかったのかもしれない。
しかし、男は娘を愛し、妻も愛そうと"彼なり"に懸命に努力を続ける。
父親という一個の人間の運命の断層をここまで視覚的に人工的な"物語"
として構築して見せた作品はこれまで体験していないかもしれない。
"断層"の亀裂は大きく深い。だからその淵を除いた妻も娘も無事では
いられない。例えその深いクレパスに落ちはしなくても父親の精神に深い深い
クレパスがあることを知っただけで大きな傷を負ったも同然である。
作品は、その三者三様の傷を見事に表現していて傷ましくも美しい。
少女が異性を心から愛し家族を築くことは恐らくは難しいだろう。
しかし、願わずにはいられない。
"エル・スール(南部)"で少女は父親に呪縛されている自分を見るだろうか。
それとも解放された自分を見るのだろうか?
きっと、その両方であろう。
なお、ウィキペディアの同作品の項には以下の記述がある。
"当初、この映画の上映時間は3時間の予定だったが、プロデューサーの
エリアス・ケレヘタが後半部90分の上映を許さず、上映時間95分の映画と
なった。"
我々は本当の「エル・スール」を観ておらず、もしかしたら、監督の
ヴィクトル・エリセは本作において"人間の謎"に果敢に挑戦しているのかも
しれない。
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