映画「さらば愛しき大地」
「さらば愛しき大地」
原題名:さらば愛しき大地
脚本:柳町光男
監督:柳町光男
撮影:田村正毅
音楽:横田年昭
美術:大谷和正
編集:山地早智子
出演:根津甚八,秋吉久美子,山口美也子,佐々木すみ江,蟹江敬三,矢吹二朗
時間: 130分 (1時間10分)
製作年: 1982年/日本
(満足度:☆☆☆☆☆)(5個で満点)
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幸雄(根津甚八)は長男として一家を支えて働いているが、妻や家族と反りが
合わず東京で働く弟が羨ましいこともありヤサグレている。一家をある不幸な
出来事が襲い、幸雄は懸命に生きようとするが弟の明彦(矢吹二朗)がかつて
惹かれていた順子(秋吉久美子)と親しくなり、、、
冷たいコンビナートの夜の映像のオープニングに、これからある地方都市を
舞台にした哀しい物語が幕を開けることを明確に告げる。そして、
脚本
監督 柳町光男
の文字がくっきりと浮かび上がる。傑作の予感。柳町光男は本作で自分の
ルーツを辿ることと同時に、映画監督としての総力を挙げることも同時に
高らかと宣言している秀逸なオープニングである。実際、本作においては、
最初から最後まで、柳町監督のルーツであり、心象風景ともいえるであろう
コンビナートと田園風景が「同じもの」として愛憎のもとにどちらも美しく、
冷たく、何度も何度も繰り返し描かれる。
脚本家で映画監督の荒井晴彦は著書において、公の場において、脚本家と
脚本というものについての邦画におけるぞんざい過ぎる扱いを長年、憤って
きた。
日本映画においては directed and written by (監督、そして脚本)の順が
当然のようになってしまっているが、本来は written and directed by
(脚本、そして監督)だろうと。『映画』とは、まず脚本が命であり、設計図
であり、それをどう撮るかであると。柳町光男は、映画という道を歩み、
自分は『映画』を撮ったのだということを同じように強く自覚した上での
脚本 監督のクレジットであろうと思われる。たった一行であるが、この
一行において、本作は日本映画を補正しようと試みている点において
画期的であると言えるだろう。
コンビナートも、田園風景も、登場する人物達全ても、幸雄も順子も
「自分たちが"センター"(中心)ではない添え物」だということを知り抜いて
生きている。自分たちの存在理由の全ては"センター"(中心)=東京に
物資とエネルギーと食料を送り続けるためであり、その巨大な恩恵のお陰で
日々の暮らしの全てが成り立っていることを。だから、誰もが心の奥底では
強いプライドを持ちながらも、中心の渦の巨大な流れにただ翻弄されて
いながらその翻弄の対価で生きてる自分達を卑下するという屈折した思い
から逃れられず、その思いから逃れる為に、ある者は酒に溺れ、多くの者は
拝金主義に陥り、順子は結果として幸雄に愛を求め、幸雄は、酒と、薬と、
愛と、金に溺れ、囚われ、蝕まれて、ひたすら堕ちていく。
幸雄は人としての負の業を幾つも背負い、その業から逃れようとさらに
苦しんでいく。だから、観客は彼の一挙手一挙動から目が離せない。
幸雄と順子のようにはなりたくないと思いながら、誰しも彼らと変わることは
何もないのだということに戦慄する。国家、都市、社会といった大きな渦の
中での自分の価値なぞほとんどゼロに等しいと日々思い知らされながら、
何かを考え、誰かを愛し、賃金を得て、家族を作り生きていかなくてはならない。
それが『一体何なのか』とは決して考えてはいけない。そんなことを
忘れさせ、気づかせないために、国家は、地方は、社会は膨大な
面白そうな何かを提供し続けているではないか。
皆、気づかない"フリ"をして必死に生きる。矢吹二朗演じる弟の明彦は
順子を奪われながらも兄の幸雄を幾度となく励まし、強く警告する。
『それ』については考えても触れてもいけないということを。
劇中で皆既日食が効果的に描かれているが、撮影期間中に偶然にも発生
することを知ってスケジュールに取り入れたとのこと。たった数分間の宇宙
規模のショーを柳町と撮影監督の田村は幸雄達に襲いかかる艱難辛苦の
必然としてフィルムに焼き付けることに成功している。この奇跡のシーン
だけでも充分に観る価値があるだろう。
家の庭の隅に作った小さな鳥居を日々拝む父親は戦争で散々苦労して
きた世代なので確信犯的に息子達の心の苦しみには取り合わない。自分達
の方が何倍も何十倍も苦労してきたという奇妙な自負が後続達の苦しみを
助長しているとは夢にも思わない。
弟の成功と兄への思いやりと気遣い、順子の彼女なりの献身、親たちの
時に無神経で厚顔無恥な日常の暮らし。『それ』について考えながら、
解くことなぞ到底出来るわけもない幸雄に全てが敵となって押し寄せてくる。
矢吹二朗(実兄は千葉真一)は、恋人を兄に獲られながら、世の無常を
受け入れて経済的に卒なくこなしていく弟の明彦役を終始好演している。
順子が幸雄の苦境を救うために明彦に借金をすることを口実にかつて
互いに思いを寄せ合っていた二人が黄昏時に会う静かなシーンは劇中でも
名シーンの一つであり柳町監督もとてもお気に入りのシーンであるとか。
運命がほんの僅か違っていれば、二人は結ばれていたかもしれない。
しかし、その運命はやっては来ず、二人は干渉し合わなくてはいけない。
その原因そのものである幸雄はそんな二人に憎しみを持つことしか出来ない。
秋吉久美子は天才的な"勘"でもしくは緻密な計算で順子を演じ切る。
男達を翻弄しながらも、ボタンの掛け違いを自力で修正していけない順子。
幸雄と順子は互いに何とかボタンの掛け違いを直そうと何度か試みるが
その行動の全てはさらなる掛け違いへと一直線に向かっていく。
順子が働いている店で仕方なく一曲歌うシーンにおいて秋吉久美子は
天才的な"勘"でもしくは緻密な計算で演出的に意図的に音程を外したもの
だそうだが、その余りの絶妙ぶりに本作以降、今日に至るまで秋吉久美子は
歌が下手だと思われて心外であるとのこと。クライマックスでの順子の
台詞もまた脚本にはない秋吉久美子自身によるアドリブとのことで、天才
としか言いようがない"勘"でもしくは緻密な計算で作品を牽引し続け監督を
悦ばせた模様。
幸雄はやがて、日本人として現代社会を生きる者としてのほとんど全て
のボタンを掛け違い、「田園風景」をただ呆然と眺める。風が吹き、
稲はただどこまでも哀しく揺れる。
戦後の日本社会の一端を描き切った傑作と言えるだろう。
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