映画「ベニスに死す」
「ベニスに死す」
Morte a Venezia
Death in Venice
原作: トーマス・マン
監督: ルキノ・ヴィスコンティ
脚本: ルキノ・ヴィスコンティ,ニコラ・バダルッコ
撮影: パスクァリーノ・デ・サンティス
音楽: グスタフ・マーラー
出演: ダーク・ボガード,ビョルン・アンドレセン,シルヴァーナ・マンガーノ,
ロモロ・ヴァリ,マーク・バーンズ,ノラ・リッチ,マリサ・ベレンソン,
キャロル・アンドレ,フランコ・ファブリッツィ
時間: 131分(2時間11分)カラー
製作年: 1971年/イタリア・フランス
(満足度:☆☆☆☆☆)(5個で満点)
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静養の為にベニスに訪れた作曲家のアッシェンバッハ(ダーク・ボガード)は
滞在するホテルで青年タジオ(ビョルン・アンドレセン)に激しく惹かれる。
一度はベニスから出る決心をするアッシェンバッハだったが手配のミスから
再逗留することなる。タジオの放つ"美"に打ちのめされるアッシェンバッハ
であったが。。
原作はトーマス・マン(1875-1955)の同名小説。映画についても原作に
ついても予備知識皆無で観たので、好き勝手に解釈して楽しめた半面、
極めて良く出来た絵画そのもののと言っていい作品であるので、映画史的
側面や文学的な幾つかの点に知っていれば細部に注目して味わえる作品
なのだろう。
まずは、物語の鍵中の鍵となる美青年タジオ演じるビョルン・アンドレセンの
"ほんまもん"の美青年振りにただただ圧倒される。
本作はは『美』についての考察的作品であって、作曲家としての人生を歩んで
きたアッシェンバッハはタジオに"恋する理由"がパーソナルな動機以上に
きちんとあって、音楽という芸術の在り方に自己を否定されてアッシェンバッハは
ベニスに静養に来ていた。
「芸術」とは、「美」とは、『権威めいた記号』であって、大衆はその権威の
記号に対して拍手を送るものである。その記号化のルールを逸脱する者は
アーテストではありえず、既存の積み重ねを無視した物は"作品"でも何でもない。
逆に言えば、決められたルールに忠実でさえあれば、その人間は芸術家
として大成でき、富と名誉が保証される。
アッシェンバッハは、自分の存在と自分の創造する物は何が何でも芸術である
というハッタリを効かすことが出来ずに、何から何まで原典がすでにあり、解釈が
理路整然と存在していなければならない世界にウンザリしていて、タジオという
"作られていない美"を目の当たりにする。
ベニス(ヴェネツィア)という街全体が完全無欠なる人口の美と、太陽と海という
自然の美。アッシェンバッハが歩んできた音楽という(アッシェンバッハにとって)
決まりきった人口の美と、タジオという青年の発する容姿と存在。
作られた体制と身分の差による貧富とそれによる人生の苦楽の落差という
人口の表面的な何かに対して、コレラによる死という人間が超越できない
"運命"という何か。。
最初こそ、アッシェンバッハという人生を躓いた男の謎、タジオの謎、
ベニスという街の謎、それらを考えながら観ていたが、幾つもの「美」が随所に
散りばめられていることが途中からようやく判って思考することを放棄して
アッシェンバッハのようにただ、人間を包む幾つもの醜悪な物も含めての『美』と、
その美と自分との"一切の無関係さ"
にアッシェンバッハと同じように絶望するしかない。
中盤からクライマックスのカオス的展開までニコラス・ローグの「赤い影」(1973)を
思い出した。明らかに本作を意識して作られていると思われる。両作品は
製作年が近いが実際はどうなのだろうか。
二つの作品はまるで人類の終末はベニスから始まると言わんばかりだ。
共通の原典またはそれに類するものがあるのかもしれない。
"美しすぎる"街ベニスが終わるということは、それはすなわち人類の終りということ
なのかもしれない。両方とも極めて悲劇的内容であることとベニスを魔都として
描いている。
人生とは一瞬先から全てが"不可知"であるとして描いている点も。
本作は作品の存在自体、存在過程がそのまま余りにも芸術的である
エピソードに満ちた作品でもあり、「傑作は傑作になるべくしてなる」という
お手本そのままだ。以下、その興味深いエピソード。
トーマス・マンはベニスに滞在中に美青年に出会っており小説はその体験が
基になっているとのこと。また、トーマス・マンが出会った美青年は謎であったが、
青年はトーマス・マンをよく覚えており、青年の身元が判明したのは本作
「ベニスに死す」の映画をこの人物が観て自分がモデルになっていることを
知ったことが発端の一つとなった。
使用されている音楽を作曲したグスタフ・マーラーとトーマス・マンには親交が
あった。主人公のアッシェンバッハはグスタフ・マーラーがモデルであり、
ルキノ・ヴィスコンティはダーク・ボガードを原作の主人公として描くと同時に
グスタフ・マーラーに似せて造形している。そして、使用されている曲は
グスタフ・マーラーが恋人に向けて作曲した作品であるとのこと。
主人公アッシェンバッハを演じたダーク・ボガードは「愛の嵐」(1973)でも常人の
感情を越えた愛に身を滅ぼす男を演じているが、「愛の嵐」において主人公の
マクシミリアンを演じている人物だとは迂闊にも全くもって気が付かなかった。
マクシミリアンもアッシェンバッハも感情の繊細な"傷ついた男"であるが方向性は
全然、何から何まで異なるからだ。
製作年は「愛の嵐」が後であるが、本作のアッシェンバッハの方がマクシミリアン
よりも全然年老いて見える。設定上、そうなっているからプロがきちんと作っている
だけのことではあるが"演じている"ダーク・ボガードも実に見事である。
人類が宇宙に向けて、自分達の存在証明を"射出"する必要に迫られたとした
ならば、世界中の名画、世界中の傑作映画の一つとして本作もリストに中に入り、
"射出"されることだろう。
我々の『他』に見せたい像の情報の一つとして。
個としての生き様というものに恐らくは「意味はほとんど無い」。
しかし、我々の生きる周囲のこの世界は意味があるが如くに余りにも
美しい。
我々は、その余りの美しさに呆然として、
必死にその感動をフィルムに焼付け、
音楽を奏で、文章に遺して、死んでいく。
ほとんどの者は何一つ遺せずに死ぬ。
何も遺せないことですらも時には充分に美しい。
それもこれも皆、『命』だからだろうか。
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