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2016年2月21日 (日)

映画「少年」

「少年」

監督: 大島渚   
脚本: 田村孟   
撮影: 吉岡康弘,仙元誠三   
美術: 戸田重昌
編集: 白木末子
音楽: 林光
出演: 渡辺文雄,小山明子,阿部哲夫,木下剛志

時間: 97分 (1時間37分)
製作年: 1969年/日本 ATG

(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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 戦傷により働けない(と主張する)父と、当たり屋を生業とする子と義母。
一家は身元が割れないようにするために家業を"営み"ながら旅を続けていくが。。

 『家族』を『独立した国家』とみなして描き、戦争へと突入していく昭和期の
日本を揶揄していることは明白である。

 "少年"は純朴な一国民であり、父は(国を過つ)絶対権力者であり、母はその
補佐役である。

 少年は聡明であり、"内なる自己"を持つ極めて健全な一個の立派な人間
である。その"少年"は、やがて父に明確に反抗を示しつつも、母には従い、自己の
肉体や運命がどうなろうともその結果を受け止め、家族=国家に帰属することを
いつもギリギリのところで否定しない。

 "少年"は幾度も家族(=国家)を捨てようと試みる。一度は自分の全財産を
掛けての祖母の住む高知に向けた本格的な「脱走」を試みる。それでも少年は
痛ましくも家族(=国家)の下に戻ってくる。 

 それは一体なぜなのだろうか。

 戦傷(肩の銃創)を持つ父は、母と子にどこまでも寄生し続けようとし、"その事"の
正当性を述べる。

 「お前らは戦争を知らない。俺は戦争を知っていて、命を懸けた
命を懸けたことのないお前らが、俺に反抗するのはおかしい。」

 オープニングでは国旗が印象的に使われ、中心は黒く塗りつぶされている。
クライマックスでの父への母と子の反逆(国家の内紛・分裂)でも国旗は同様に
扱われ、このシーンだけ"モノクロ"処理されている。シーンの意味するところは
同じく大島渚監督による「儀式」(1971)で描かれるスキームと同様だ。

 いつも、人々の背後に厳然としてある重たく、底暗い『何か』

 家族は離散の危機を何度も迎えるが、いつもうやむやとなり当たり屋家業を
しながら、やがて北へ向かう。

 家族(=国家=長に服従するシステム)を維持していくための"シノギ"であり、
少年(と母)はその駒でしかない。その駒であることに疑問を感じ、その駒である
ことを自ら否定しようとするれば"長"(おさ)による生殺与奪の権限はすぐに
発動される。。

 少年は両親にいかに酷い言葉を投げかけられ、大切にしている帽子や
腕時計を投げ捨てられても、母を敬おうとし、父を助けようとし、自らも"生きよう"
と懸命になる。

 しかし、やがてその全ては必然的に崩壊へと向かう。

 「国家(家族)の外」には一体何があるのだろうか?さらに、その外には一体
何があるのだろうか?内も外も全ては因子の一つに過ぎず、お互いに複雑な
系が作用することで成立している。

 その系を自ら絶ってしまったシステム(国家=家族=個人)はある一定期間は
上手く作動するかもしれないが惑星が自らの重さまたは軽さにより自壊していく
ように内部崩壊を起こしていく。

 では、"彼ら"(=家族=国家)が大きな系から自ら外れていった"その理由"は
何なのだろうか。大島渚は観客に大きな"?"を投げかける。

 小川明子が夫に対しての妻として、少年に対しての義母として且つ一人の女性
として、或る家族を見つめる観客に対して、終始、絶妙なバランスを保って演じて
いる。そして、その絶妙さは小川女史の計算の上と思われる。小川明子は大島渚の
実生活における伴侶である。

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