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2016年4月10日 (日)

映画「魔人ドラキュラ」

「魔人ドラキュラ」
DRACULA

原作: ブラム・ストーカー
監督: トッド・ブラウニング
脚本: ギャレット・フォート
撮影: カール・フロイント
出演: ベラ・ルゴシ,ヘレン・チャンドラー,デヴィッド・マナーズ,
エドワード・ヴァン・スローン,ドワイト・フライ

時間: 74分 (1時間14分)
製作年: 1931年/アメリカ

(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)
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 その名は、" Count Dracula "

 Countは"伯爵"を意味するが、ウィキペディアによればドラキュラさんの場合は、
授与されての正式の称号ではないとのこと。ドラキュラさんには何となく、大公(Duke)や、
公爵(Prince)や、子爵(Viscount)や、男爵(Baron)やましてや騎士(Knight)なんて
似合わなくて、やはり

 ドラキュラさんは伯爵であり、それは自称か、自然発生的なものである。

辺りに居て頂くのが落ち着く。

 劇中における「生態系としてのドラキュラの設定」の"寸止め感"が絶妙で、
その寸止めにより、吸血鬼ドラキュラは人間と社会にとっての

 未知=不安要素の権化

となり、それがそのまま

 =恐怖

として映画の主要ファクターとして機能している。「名作」の所以の一つである。

そして、既に名声が確立して久しい

本作における"ベラ・ルゴシによるドラキュラ"は、

真にドラキュラというブランドの「A~Zまで」を表現して余すところがほぼ無い。

 何らかの『理由』により、寿命を"引き伸ばしている"ために、恐らく代謝が極度に
遅いために動作は緩慢
で(その緩慢さが風貌と相まって、貴族的優雅さに取って
変わられて自他共に認める伯爵の称号へ?)、強烈な太陽の光には肉体が持たない
であろうことが容易に予想される。

 血液という「完全栄養食」(なんせ哺乳類のガソリンであり水分であり滋養そのもの)
を執拗に狙うのもまた当然であり、若い女性の"それ"が一番美味いという設定も
実に自然である。

 十字架を嫌うのは、十字架が文明の象徴であり、マン・サイドであり、
「異形の者」=異教徒が忌み嫌うという設定は、ヤオロズの神の国の民、
Far Eastの人間としては内心では忸怩たるものがあるが仕方が無い。

 毅然として、ドラキュラに立ち向かうは学者ヴァン=ヘルシング
まっこてカッコイーd(≧∇≦)b

 人間の浅ましさ、不完全さを嫌というほど味わってきたであろうその顔の皺と表情
そして、そんな不完全な人間達を、科学の法に従って導こうとする使命感と気迫
ドラキュラが"ドラキュラ"という怪物だからではなく、

 マン・サイドでは決してないという"直感"から、どこまでも毅然と対峙していく。

 十字架も鏡も、ドラキュラという「社会秩序を乱すエイリアン」を倒すツールに過ぎない
というクールな設定は、20世紀が科学万能主義というイデオロギーの時代であることとも
無縁ではない。

 製作が19世紀なら、18世紀なら、17世紀なら、舞台が東欧か西欧か、南米か、
北米か、アジアか、日本か、いつのどこかで、ヴァン=ヘルシングのかざす『正義』
そして武器、小道具は変わってくるだろう。

 ドラキュラの悪しき血に侵されながらも運命に抗おうとするヒロインミーナの行く末に
ある簡単な仕掛けがしてあって、見逃す人には何のことか判らず、筋を消化して観る
人間はニヤリ。「映画」の大事な楽しさの一つと言ったところか。

 己の生存の為に人間社会を破壊することだけにひたすら邁進する
「ドラキュラという存在」を1時間弱見続けるのは、映画の作品的質とは別にして、
苦痛ではある。あからさまな社会の破壊を日々大規模に小規模に陰に陽に、
朝に昼に受けているせいかもしれない。
 
 
 人類の存亡を賭けた激闘はいつしか終わり、陽はまた昇る。

 ヴァン=ヘルシングは、『棺桶の中』に一体何を見たのか、語ることない。。
 
 
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