映画「マリア・ブラウンの結婚」
「マリア・ブラウンの結婚」
DIE EHE DER MARIA BRAUN
THE MARRIAGE OF MARIA BROUN
原案: ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
監督: ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー
脚本: ペーター・メルテシャイマー,ペア・フレーリッヒ
音楽: ペール・ラーベン
撮影: ミヒャエル・バルハウス
出演: ハンナ・シグラ,クラウス・レーヴィッチェ,イヴァン・デニ
時間: 120分 (2時間0分)
製作年: 1979年/西ドイツ
(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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ナチス・ドイツ陥落直前の砲弾が降り注ぐ最中、"マリア・ブラウン"は結婚する。
戦争は終わり、ドイツ市民は、全てを失い焼け跡の中に放り出された。夫の部隊が
全滅したことを知らされたマリアは、母達と崩れかけた家で身を寄せ合い他の女達と
同様に"体"を張って生きていくしかなかった。酒場で働くマリアは進駐軍の黒人将校
ビルと懇意になり、その子を宿す。パトロンを得たマリアの前に戦死したはずの夫が
復員してくる。。
銃声と、砲弾の嵐の中で愛を誓う二人。
秀逸なオープニングであり、その怒涛さと、唐突さに、何となく勝手に
"ファスビンダーっぽさ"を感じる。
婚姻届を記載する役人はたまらず逃げ出し、砲弾の中で転げ周りながら
自分で判を押すマリア(!)。
進駐してきた米兵から施しを受けた煙草は、ブローチと交換され、
酒に代わり、
酒は服に代わり、
マリアは化粧をし、男を挑発し、女は娼婦となり、
"金ズル"を得る。
外国語を習得し、"さらに大きな金ズル"ゲットしていくマリア。
マリアのおこぼれに預かっていく母達。
→最初に戻る。
登場する誰もが無法地帯となった「戦後の世界」で損得勘定で生きながらも、誰もが
自身の決めた"プライド"の境界線を譲らずに生きている様を克明に描いていることが
この作品を傑作にしている。
マリアは売れる物(主に自分の美貌と体)は全部売るが、夫への思いに揺るぎは無い。
夫は、妻マリアが貞節を守れないことを黙認しながら、夫であり男である事そのものに
ついてはマリアにもマリアの周辺の男達にも寸分も譲らない。
母は、娘の稼ぎにあやかり続けるが、
女であることを捨てず欲の権化と化した娘
を罵倒する。マリアのパトロンとなった中小企業の社長は自分の生を全うする
為にひたすらマリアを愛し続ける。。
ファスビンダーの描く世界で生きる人間には"情"と、背負った"業"に従って生き、
行動し、発言する人々が典型の一つとして登場する。理性や、正義はずっと後回しに
なるが、その事を心のどこかで気には止めており、事態は複雑になる。観客はその
カオスに没入し、共感し、登場人物の誰かに自分を重ねる。
自分の"命"と才気溢れる"頭脳"というソフトウェアと、"豊満なボディ"というハード
ウェアを駆使して成り上がっていくマリアをひたすら追っていく。そして、登れる限りの
階段を登り切ったマリアが堕ちていく様は「オープニング・ナイト」(1977)を何となく
思い出させた。
第二次大戦終結直後の「混沌」を70年代の終りという時代に再現するのは容易では
なく、雰囲気を出すために相当に気を使っている感じがする。細部の小道具も大事
だけれど、こういった"パラダイムシフトの断層"を描くときに大事なのは当時の"空気"
がいかなるものだったか推測し慮るという過ぎ去った時代へのリスペクトである。
「それが出来ない」のであればどれほど大金をかけようとも結実を見ないのは周知の
事である。ファスビンダーはニュージャーマンシネマを担う一人として"ロス・ハイマート"
を充分に自覚しているがゆえには自分のイメージと自分が見る世界に対して、忠実に
再現しようとしている"人間"なのだろう。
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