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2016年12月17日 (土)

観_16_12_17

観_16_12_17  <<  >>

  

 都内某所で映画を観る。

 朝、起きて「止めておこうか。家でヌクヌクしてよか。」といつものウダウダ。
今年のラストスパートを考えると今日観ないわけにもいかないので家を出る。

 2016年の残りの数週間の時間配分(主に仕事の)について考えながら都心に
向かう。例年ならば、考えなくば、とてもとても大変なこつになるので嫌でも
考えざるを得ない
わけだが、今年は手順の組み立ての楽しみと、若干の余裕が
あるのが大きな違いだ。

 しみじみと晴れた空を見上げる。

 混み具合によっては鑑賞を後日に回すつもりだったので、そうすると明日以降に
かけての予定までも大幅に変更しないといけないが案外そうでもなく整理券を
ゲットして久しぶりにいつもの古本屋へ。

 長らく店長と思われる初老のオヤジさんが分厚い眼鏡をかけて過労気味の
青白い顔ではあるが笑顔は絶やさずといった感じでいつも一人で忙しそうに
対応していたが、ここ最近は潤っているのかアルバイトで20代と思われる方々が
店番をしている。店内の品揃いも悪くなく、ここでは随分買った。今日も2冊購入。

 いつもの定食屋へ。こちらは顔なじみの方々が一時いなくなってしまい配置転換
かと思われたが今日はまた元に戻っていて暑苦しいオヤジさん達のテキパキとした
フライパン捌きとサバサバとした料理のサプライに和みつつガツガツと喰らう。
いい休日。

 登場人物達に訪れる大小様々な事象と時代の困難を彼らに訪れる運命の
言い訳にいかに"しない"か
、まずは脚本と、そして次に監督と、制作陣の
心構えと、教養と決意が試され、且つ如実に作品に現れるのが「映画」。

 ここ数日、「映画」と呼ぶに相応しい作品に出会えて余は眼福であった。

 そこには、表現したい『何か』は確かにあるか?

 そこには、伝えたい『何か』は確かにあるか?

 私は、揺るぎない『何か』に出会いたくて木戸銭を持ってこれからも劇場に足を
運ぶのです。

 

  



 



 
 
 
 








 


 

 




 

 
 


 
 

 
 
 
 
 
   



 
 
 
  
 
 


 


 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 

   


 
 






 


 

 


 

 


 
  

 
 
 







 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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