映画「ゴンドラ」
「ゴンドラ」
原案: 伊藤智生,棗耶子
監督: 伊藤智生
脚本: 伊藤智生
撮影: 瓜生敏彦
音楽: 吉田智
編集: 掛須秀一
出演: 上村佳子,界健太,木内みどり,佐々木すみ江,佐藤英夫,
出門英,鈴木正幸,長谷川初範,奥西純子
時間: 112分 (1時間52分)
製作年: 1986年/日本
(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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小学五年生のかがり(上村佳子)は、両親の不和と父親の不在を原因に
精神的に孤立した日々を過ごしていた。ビルの窓拭き清掃をして生計を立てる
青年の良(界健太)は、ゴンドラから見える中の人間模様を観察しながら同じく
孤立した人生を送っていた。いつものように清掃をしていた良は、飼っていた
小鳥の怪我に呆然とするかがりを窓の外から偶然見つけ。。
制作当時30才だったという伊藤智生の初監督作品であり、現場は20代の若い
スタッフがメインだったという作品。完成当時は配給先が見つからず難産だったとか。
オープニングから、所謂「映画」という既成の文法に拘束されていない、拘束され
ないのだという強い意志が伝わってくる。そして、"不安"も。
かがりを演じる上村佳子も、良を演じる界健太も、演技という既成のルールに
拘束されていない。そのリアリティが、かがりと良の置かれた境遇、不安や孤独に
強力にシンクロして、『映画』を見事に出現させて観る者を惹きつける。
状況的に孤立を余儀なくされている二人であるが、彼らの心の芯の強さが
本作の大きな魅力である。
かがりには恐らく友達と呼べる関係はない(なかった)。同居している母親
(木内みどり)には父の事もあり大きな不信を抱いている。だが、同級生に
相手にされなくても、母親の理不尽な仕打ちにもかがりは決して屈することはなく、
抵抗も辞さない。
良も同じく上京して数年経つが人間関係は皆無で、"窓の中の人間"を内心では
羨ましく思っているのかもしれない。だが、自身の境遇を"外的要因の結果"には
決してしない。かがりへの善意がどんなに無碍にされようとも怒りを表すことも
しない。
かがりの父は、音楽の才能があったのかもしれないが社会的に開花する
ことはなかったのだろう。良の父は、漁師の本分を奪われて生きているが
伴侶の献身的な支えのお陰で不幸の淵で踏みとどまっている。だが、
父親としての威厳がないことが良の人生に大きな影を落としていることは
間違いない。
木内みどり演じるかがりの母は、バブル全盛だった当時の人間の驕りの側面を
象徴するかのように娘の育児を半ば放棄して身勝手に生き、その事にまるで
自覚がない。だが、彼女とて悪人というわけではなく、後半では娘の事を案じ、
自身を責めていると思える様子も見せる。
映画である以上、"何か"を描かなくてはならず、物語である以上、その"何か"
には意味を持たせ、そこから、主要登場人物達の行動の動機に繋げていかなく
てはならない。
そうして、多くの映画は、大きな過ちを犯して「堕ちて」いく。
制作費用は監督が自ら負っていたという本作は、"映画である、でなくては
ならない"ことから自由であり、携わった若者達も、監督も自由であった。
それは、好き勝手にやっていい野放図な自由気ままではなく、『表現すること』に
専念できる真の自由であった。
だからこそ、歪んだ嘘や強迫観念で登場人物達の動機を汚し、映画を壊し、観客を
不快にするという『当たり前の事』を避けるという奇蹟が起きていることは偶然では
なく、制作陣の願いの成果なのだろう。
かがりと良は、周囲の人間のように"偽る"必要がない。
"取り繕う"必要もない。
だからこそ、二人は、実は『自由』である。その事を自覚していく後半の二人の
表情は、格段に豊かになっていく。
かがりと良は、どこまでも、果てしなく、永遠と思えるほどにただひたすらに歩いていく。
他に生きる理由など何もないと言わんばかりに。
その先には、一体何が待っているのだろう。
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