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2017年3月 5日 (日)

映画「戦国無頼」

「戦国無頼」

原作: 井上靖
監督: 稲垣浩
脚本: 稲垣浩,黒澤明
撮影: 飯村正
音楽: 團伊玖磨
美術: 北猛夫
編集: 宮本信太郎
出演: 三船敏郎,三國連太郎,市川段四郎,山口淑子,浅茅しのぶ,東野英治郎,
志村喬,香川良介,小杉義男,青山杉作,三好栄子

時間: 135分 (2時間15分)
製作年: 1952年/日本

(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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佐々疾風之介(三船敏郎)と立花十郎太(三國連太郎)は、落城寸前の城から逃げ出そう
と算段をするが、おりょう(山口淑子)の突然の来訪に疾風之介は十郎太におりょうを
託すことに。見張りをしていた鏡弥平次(市川段四郎)は、絶望的な状況から十郎太と
おりょうを故意に見逃す。疾風之介は、落ち武者となり加乃(浅茅しのぶ)と出会う。
やがて、それぞれの運命が交錯していく。。
 

 明日には間違いなく消える命という前夜での主人公の疾風之介(はやてのすけ)を
演じる三船敏郎と、疾風之介とは対照的な性格の十郎太を演じる三國連太郎の
演技合戦と、素晴らしいセットと撮影のアンサンブルにまずは酔いしれる。

 美術担当は、東宝の歴代のゴジラシリーズや特撮映画を担当した北猛夫。編集を
担当したのは宮本信太郎。宮本はマキノ雅弘の「仇討崇禅寺馬場」(1957)や内田吐夢
「酒と女と槍」(1960)や内田の後年の代表作である宮本武蔵シリーズなど非常事
(戦場)の中で激情に悶える人々を活写した作品を多く手掛けていて本作を含めて
どれも上手い

 虫の音が聞こえる中で、二人の武士は共に"ここから逃げる"ということでは意見の
一致を見るが、その方向性はまるで違っていて激しく議論を展開する。

 三船演じる疾風之介は、単にどう考えても勝ち目がないから無駄死にを避けるために
脱出するということに過ぎず、命が惜しいからではない。そして、逃げるという点について
恥じ、まだ最終決定はしていない。

 対する三國演じる十郎太は、自分の命の保全のことしか眼中にはない。

 黒澤明の手掛ける脚本(稲垣浩との共同なので、どの程度まで黒澤の意図が反映
されているかは判らないが)は、戯曲のように一つ一つのシーンで登場人物達の感情の
抑揚の表現が明確に区切られていて、俳優達も演じ甲斐があるように思われる。

 "世界の三船敏郎"と、"世界の三國連太郎"と、"世界の黒澤明"と、邦画界の"巨匠"
稲垣浩の演出(稲垣はスタッフから畏敬と尊敬の念を込めて巨匠と呼ばれ笑顔で
気安く応じていたとのこと)と、優れた撮影監督と美術の融合したこの冒頭のシーンの
迫力と美しさは圧倒的だ

 その中でも三國連太郎の"極限状態の中で憐れに揺さぶれる小さき人間"の演技
は出色で、幾多の作品で他の俳優を簡単に食ってしまう容量の大きさに本作でも目を
奪われる。誰もが命が惜しく、誰もが、"最終的には"自分にだけ利があればいいと
どこかで思っている事を三國が演じる人間はいつも「隠さない」。その事が映画に
非映画を齎し、リアリティと臨場感を大きく上げて、作品の映画的効果に帰結することを
三國は直観的にもテクニック的にも知り抜いて且つ実践した稀有な役者と言える。

 三國が見苦しく狼狽え、他人を蹴落としてでも、裏切ってでも、そこから脱走しようと
もがき足掻くことで観客は「非常事態」の現場に自分もいるかのような臨場感と物語を
楽しむことが出来る。

 黒澤の『人』としてのリアリズムを追求する姿勢、人の行動の源泉となる動機の順番
「まず、己がどうするか」という呼吸の"動"と、稲垣の他の作品にも見える監督として
正しい姿勢である諦観のような"静"が、「脚本と演出」というそれぞれの立ち位置に
おいて文字通りの理想的な相乗効果が本作には起きている

 ただひたすらに『己』という視点から立身出世"だけ"の為に戦へと向かっていく
十郎太と、"勇敢な武士(もののふ)"たらんとする余りに"はやてのすけ"と自らの
名前を大書した旗を付けて結果的に同じく名を売るために戦場へと何度も繰り出して
いく二人。

 稲垣と黒澤の強力タッグは、それらが疾風之介と十郎太の、数多の侍たちの本意
から出た行動ではなく、戦場を現出させている根源である封建制、権力構造を
冷静に恐らく意図的に脚本と演出に臭わせている。

 黒澤の「リアリティの追及」は、戦(=戦争)とはあくまでも「仕方なくやらされている」
のが本当
であり、人に見せる表情や台詞・感情はその後に来るという「不都合な真実」
を稲垣は意図的に描いている。踊らされているに過ぎないといってもいい疾風之介と
十郎太は、狂気と憐れをそれぞれに感じさせる。

 戦時中であれば、本作は検閲で明らかにNGになっただろうと思われる。

 傑作と呼べる戦場とその周辺のシーン、男達の生き様の描写の申し分無さに比べて、
おりょうを演じる山口淑子と浅茅しのぶ演じる加乃はどちらも女性の精神的な強さを
描いてはいるが、今日の眼では掘り下げ不足の感も否めない。映画という世界を作る
上でのリソース配分から言って仕方無いとも思え、逆に興味深い。次世代の映画作り
にはまだやれるべき点があるというところか。

 物語の終盤、またしても籠城による落城必至の現場に迷い込んでしまった三船演じる
疾風之介は、おりょうと十郎太と生き別れた時との違いを感慨深く、そして、雄弁に
語る。

 「あの頃には、皆には必死に生きる激情と死にもの狂いがあった。ここは違う。
誰もがこの霧に巻かれたのかどこか安穏と死を待っている。自分も。」

 それは、明治維新以降の国の勃興と隆盛から一転した太平洋戦争後半の緊張の
緩みと、現状認識の甘さとそこからの瓦解を暗に批判したものではなかったか。

 その台詞は、必死の作戦に向かっていって還ってこなかった自分と同世代か、
それよりも下の若者を間近で見送り、生き残った三船の述懐でもあったのかも
しれない。

 本作の制作時点では、日本の総力を挙げた戦争が終結してまだ十年も経って
いないのだ。

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