映画「ツィゴイネルワイゼン」
「ツィゴイネルワイゼン」
監督: 鈴木清順
脚本: 田中陽造
撮影: 永塚一栄
美術: 木村威夫,多田佳人
編集: 神谷信武
音楽: 河内紀
出演: 原田芳雄,藤田敏八,大谷直子,大楠道代,麿赤兒,真喜志きさ子,
樹木希林,木村有希,玉寄長政,佐々木すみ江
時間: 145分 (2時間25分)
製作年: 1980年/日本
(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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「陽炎座」(1981)よりは洗練されているなあと勝手に思ってみていたが、制作順序
においては本作が先となる。
個人的にはどちらの作品も悪酔してしまってまるで悪手・妙手連発の棋譜のような
作品ではあるが 本作の方が「陽炎座」よりもムダな肉が削ぎ落とされている印象が
ある。
"眼クラの三人組"が主人公達三人組の鏡の役割を果たしていて作品全体に
素晴らしい安定感とユーモアをもたらしている。男二人に弄ばれているのか、
弄んでいるのか、何とも判らない眼クラの少女を演じた木村有希の演技が
垢抜けていてとても良い。木村有希はメジャー作品は本作だけで終わって
しまっているのか消息はよくわからない。
鈴木清順は、多分、「自分が見ている物、見えている物、"そのもの"」を
映像化することに心を奪われている、或いは心掛けているのではないかと思う。
「関東無宿」(1963)においてすでにその傾向は顕著であるように思うがどうだろう。
「見ている物」とは「見ている」という"意味付け"により構築されているということを
清順は直感で見抜いており、それを
「物語化して、しかるのちに映像化する」のではなく、
「意味付けされた映像を作って、そこから物語化する」
という手法を確信犯的に取っていると思われ、観客は、構築側としては正しいのかも
しれないが映画文法的には悪手となる方法論に悪酔してしまう。
本作は、原田芳雄演じる人に化けた"怪物"中砂によって運命を根底から
弄ばれる人々の記録なわけだが、
物語の中で蠢く中砂とその周辺ではなく、
中砂が壊していく世界と人々の歪み"そのもの"が物語となる
ので途中から観ている方もその時空の歪みに完全に飲み込まれしまって
自分の座標値を見失ってしまう。
遊園地の中にいることまでは同意し、自覚していたが、いつのまにか
ジェットコースターに乗っていた(乗らされていた)ような気分とでも言おうか。
人間は自分を勝手に自称"ニンゲン"と称して他の動植物と勝手に差別化して
喜んでいる精神に異常を来たした生き物であるが、通常のほとんどの映画は、
少なくとも"ニンゲン"と「誤認」しても良いという"許可"から始まっているが本作や
鈴木の作品が異色なのは、
自称"ニンゲン"を許さないからだと思う。
だから、肉体や時空を軽々と越えた声の発現や精神の交感を許す。
本作はその到達点と言えるのかもしれない。
本作を観て、自分が生活の細かな規範・規則に精神がいかに縛られているか
よく判った。
かといって、当然であるが中砂の奔放というよりも悪魔そのもののような
行動には眉を顰めるしかない。
観終わった時には「もう沢山だ」と思いつめたが、もう一回観たいという衝動に
狩られている自分が確実にいる。
生きることそのもの快楽に目覚めた乙女のように。
獲物を求めて彷徨う狼のように。
人間は、ニンゲンではなく動物(beast)なんだ。
それにしても、、、
本作においても"漢の中の漢"原田芳雄の『兄貴』の炸裂っ振りに萌えまくり。
原田兄ぃは生前、「じゃあ、今から、脚本は無視するからね。」
とか平気で宣っていたそうであるが、本作ではどれくらい暴走しているのだろうか。
ほとんど全部とも思えるし、案外、脚本(というか作品の精神)に忠実なようにも思う。
鈴木清順の奏でた(遺した)諸作品と、サラサーテの名曲「ツィゴイネルワイゼン」
にはポテンシャルとしての共通項があるように思う。
銘作。
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