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2018年3月

2018年3月31日 (土)

映画「シベールの日曜日」

「シベールの日曜日」
CYBELE OU LES DIMANCHES DE VILLE D'AVRAY
SUNDAYS AND CYBELE


原作: ベルナール・エシャスリオー
監督: セルジュ・ブールギニョン
脚本: セルジュ・ブールギニョン,アントワーヌ・チュダル
撮影: アンリ・ドカエ
音楽: モーリス・ジャール
台詞: セルジュ・ブールギニョン,ベルナール・エシャスリオー
出演: ハーディ・クリューガー,パトリシア・ゴッジ,
ニコール・クールセル,ダニエル・イヴェルネル,アンドレ・オウマンスキー

時間: 116分 (1時間56分)
製作年: 1962年/フランス

(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)
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空軍のパイロットだったが戦傷で記憶を失い呆然自失の日々を送っていた
ピエール(ハーディ・クリューガー)は父親の都合で修道院に入れられる少女
フランソワーズ(パトリシア・ゴッジ)と出会う。失踪してしまった父親の代わり
となってフランソワーズの相手をしていたピエールだったが、孤独だった
二人は気持ちを通わせるようになる。だが、周囲の目は厳しさを増していく。。


 『無垢』というものについての物語であり、人間達の対応についての考察的な
作品でもある。

 フランソワーズを演じる美しき少女パトリシア・ゴッジの魅力と、親子ほどの
年齢も違う二人の"男女"が接近していくという人間としては当たり前のことであるが、
社会規範や表面上の、取り繕い上のモラルとしては"断然許されない"ことから、
元々孤立していた二人は決定的に社会から疎外されていかざるを得ない。

 ピエールは、記憶を失っているだけでなく、戦場で少女に機上から銃口を向けて
しまったことにより、自分の生きて来た土台=社会そのものが信じられなくなり
日常というものに疑念と嫌悪感を持っている。

 煩わしい社交辞令という毒に侵されていないフランソワーズの持つ価値感が
ピエールにとってのミューズになるのに時間はかからなかった。

 フランソワーズの愛くるしさとピエールの恋人に嫉妬してみせたり、12才という
思考としては大人とほとんど変わらないが、社会の枠の外にいる奔放さが、
「映画」としてのもう一方の危うさと妖しさの魅力と持つ。

 フランソワーズを演じたパトリシア・ゴッジのキャラクターを越えているとも言える
魅力と魔性が作品そのものにとっても"ミューズ"でありながら、物語以上の様々な
憶測を観客に持たせてしまう功罪
もまたこういった映画の持つ巨大な魅力と
魔力なのだろう。

 本作は、時代の趨勢が作らせた作品とも言え、時代を本作以前・以後とも区切る
ことも出来るだろう。制作年付近の文献では本作のタイトルは割と良くみかけ、
イコンの一つとして確立している。

 フランソワーズを演じたパトリシア・ゴッジは本作についてどのように当時考え、
老年期を向かえているはずの今、どのように考えているのだろうか。 

 モーリス・ジャールの音楽とアンリ・ドカエの美しい映像が本作を一層気品のある
ものにしている。

 『映画』の一つの形では、ある。

 

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2018年3月25日 (日)

映画「僕の村は戦場だった」

「僕の村は戦場だった」
Ива́ново де́тство
Ivan's Childhood
 
   
原作: ウラジミール・ボゴモーロフ,ミハイル・パパワ
監督: アンドレイ・タルコフスキー
脚本: ウラジミール・ボゴモーロフ,ミハイル・パパワ
撮影: ワジーム・ユーソフ
音楽: ヴァチェスラフ・オフチンニコフ
出演: ニコライ・ブルリャーエフ,ワレンティン・ズブコフ,E・ジャリコフ
 
時間: 94分 (1時間32分)
製作年: 1962年/ソビエト
 
(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)
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個人的には他の作品のどれにもあるタルコフスキーらしさが
"感じられない違和感"

が新鮮な一本。

 その違和感は、キュブリックの幻のデビュー作品「恐怖と欲望」(1953)の
違和感の質と、"らしくない"という点において両者は「相似形」となる。 

 「映画を撮らねばならない」

 「映画ではなくてはならない」

という肩の力の入り具合と、まだ『彼ら』というものがきちと見出されていない
新鮮さとでも言おうか。

 終盤における

 「ナチス崩壊をソビエト側から見ている描写」

は、実に淡々としていて、ゲッペルスの焼死体についても監督としての描く意志は
画面からはまるで感じられない

 まるでニュースソースそのものであり、最初から企画ありきで国策映画のようにも
感じられる。

 作品からは、制作自体からしてタルコフスキーの本意ではなかったように
思われる
が実際のところどうだったのであろうか。

 他の作品との共通項としては、登場する少年の人間として「芯の強さ」は
感じられて「映画」として成立している。そう言えば、女性の側の視点が諸作品の
中に見当たらないのはタルコフスキーに

「自分は女であったことも少女であったことも無いので。」

と至極簡単に言われそうな気もする。「惑星ソラリス」での妄想の方向性からも
それは当然か。

 戦場で生きる軍人達、少年、一般市民は、

「自分達以外」という『世界』

に放り出されているという現実世界では当たり前の初歩の初歩であるが、

『映画』においては真逆で、

凡作ではほぼ必ず登場人物の誰かが神様の視点となって世界そのものを
脚本通りに引っ張っていく。

 そのことが往々にして「映画」をつまらないものにしていくわけであるが、
タルコフスキーの作品には徹頭徹尾『それ』がなくて、本作は氏の他の作品と
比べてしまうとイマイチではあるが、『それ』がない」というルールは、
本作においても守られていて、作品全体に心地よい緊張感がある。

 ただしクライマックスにおいては、"このルール"は破られてしまい、
作品をつまらないものにしている。

 タルコフスキーにもその自覚はあると思われる。作品のテンションの部分的な
低さがそれを証明しているように思う。

 ラストにおける悲哀と人間愛ともいうべきメッセージは流石。

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2018年3月21日 (水)

映画「朱の花粉」

「朱の花粉」


原作: 舟橋聖一
監督: 大庭秀雄
脚本: 柳井隆雄,大庭秀雄,高橋治
撮影: 厚田雄春
音楽: 池田正義
美術: 芳野尹孝
録音: 栗田周十郎
照明: 石渡健蔵
出演: 有馬稲子,佐田啓二,杉田弘子,山内明,津川雅彦

時間: 82分 (1時間22分)
製作年: 1960年/日本 松竹

(満足度:☆☆☆☆)(5個で満点)
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 菊絵(有馬稲子)は女学校時代、教師の武中(佐田啓二)と恋仲であったが、
戦争は二人を引き離した。菊絵は危険思想の持ち主として目をつけられ逮捕
された武中を救うために憲兵の浜名(山内明)の求婚を受け入れる。
やがて戦争は終わり菊絵は復員していた武中と再会するが。。

 
 戦中の出陣式のシーンの民衆の高揚感とお互いに"空気"を読みう時代と、
戦後の混乱の雰囲気は画面にとてもよく出ていて、

 「実際にもこんな感じだったのだろう」

と往時を思わせるリアリティがある。

 撮影は、小津組の常連にして邦画史に巨大な足跡を燦然と残す厚田雄春
なので朝飯前の仕事なのかもしれない。

 佐田啓二は、女性にモテる役を多く演じているが、いつもどこか飄々と
している。恐らくその飄々振りが女性を一層夢中にさせ、男性から見ても嫌味が
なくてある種の独特感がある。37才という若さで事故に遭い他界してしまったが、
長生きしていたらどんな俳優になっていただろう。全くもって惜しいことだ

 有馬稲子は、「幸せになれない女」が本当によく似合う。そして、それが
実に"絵"になる。
満面の笑みで幸せを掴んだ彼女も素敵であるが彼女には
大変申し訳ないが、余り見たくない。

 世の不条理と男の身勝手に翻弄され悔しさをを滲ませた表情こそが有馬であろう。

 「東京暮色」(1957)での男に裏切られたことを認められずに暗闇の波止場で
呆然と佇む後姿の寂しさこそ彼女の本領であろう

 なぜだろうか?

 男や人生というものに幻想を抱き過ぎてしまう結果なのだろうか?

 

 原節子、高峰秀子、山田五十鈴、有馬稲子、、、


 大庭秀雄は今後再評価され観られてよい名監督の一人だろう。


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2018年3月19日 (月)

"あの日"から七年が経過

 

 "あの日"から七年と数日が経過した。

 今年は、個人的には東京大空襲が3.10であったことの認識を新たにした年となった。

 放射能の測定は、以下のサイトから全国各地の値を知ることが出来る。

環境放射線測定結果(東京都健康安全研究センター)
[http://monitoring.tokyo-eiken.go.jp/]

以下の8箇所について「大気中の放射線量測定結果」の記録が確認できる。

新宿: 新宿区 百人町(健康安全研究センター)
江東: 江東区 青海(産業技術研究センター)
大田: 大田区 羽田空港内
足立: 足立区 舎人公園(都立舎人公園)
江戸川: 江戸川区 上篠崎(都立篠崎公園)
八王子: 八王子市 南大沢(首都大学 東京)
調布: 調布市 西町(調布飛行場)
小平: 小平市 中島町(薬用植物園)

 これまでは主に新宿にしか注目していなかったが今回、各地域の数値を見て
みると同じ東京エリアなのに傾向がそれぞれ異なることが判る。位置と地形の影響が
割とあるのだろう。

 新宿については去年の調度今頃から急に一程数値底上げされて現在に至っている
(0.005μGy/h程度)が同時期の他の地域の値を見ると全体として何か状況に変化が
あったわけではなさそうで測定方法に修正でもあったのだろうか。

 今年の3.11関連の記事では津波の被害が大きかった沿岸地域における復興
の在り方に疑問と改善案を提示する傾向が見られるように思う。

 「人が継続して住めてこその復興」

 どこの地域にも言える普遍的且つ最重要なテーマと接点が確実に見えてきている
のは良いことなのだろう。

 エネルギー政策との折り合いについてはまだまだこれからの感じ。全体として
理解は進んでいると思いたい。

 意見の集約と収束が遅々として困難であるのは、人が活動するエネルギーを
コストパフォーマンス良くゲットしてしかも貯蔵しておくということがそもそも
根本的に反不自然的なことであること
だからなのかもしれない。

 
 

人的被害 (2018年3月9日 時点)
ウィキペディア"東日本大震災"の項より
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死亡    15,895   
行方不明  2,539
負傷計   6,156
合計    24,590
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一年前の同じ時期の同項の数字。

人的被害 (2017年3月10日 時点)
-------------------------------------------------
死亡    15,893   
行方不明  2,553
負傷計   6,152
合計    24,598
-------------------------------------------------

 一年前の同サイトでの公表された数字と比較すると、
死亡が確認された方は2人増えた。
行方不明の方は、14人減った。
負傷された方は、4人増えた。
人的被害の合計数は、8人減った。

 新たに生存が確認された方がいたという一方で犠牲と
なった方もまた2名確認された。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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東日本大震災関連ブログ記事 INDEX >>

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2018年3月12日 (月)

観_18_03_11

観_18_03_11  <<  >>

 都内某所で映画を観る。

 表に出ると梅の花が咲いていて和む。 

 東日本大震災から7年が経過。東京大空襲からは73年が経過した。

大空襲が3月だったことは知っていたが3.11と一日違いで3.10であったことは
つい最近知る。いや、何となく知っていたのかもしれないが、自覚を新たにする。

 元々嫌いな時期である上に例年は、既にempryモード且つ多忙も甚だし

 虚しさ全開

のこの時期であるが今年はエネルギーに多少の「残」があって「だからどうだ」という
事もなく都心に向かう。

 この時期自体は好きではないが、世間のフワフワそわそわしている雰囲気自体は
嫌いではない。

 間違った台詞(台詞が間違っているのはなく、登場人物の言っていることが
間違っている。
)を平気で言って、その先の重大性に本人はまるで気付いていない
点に暗澹たる思いをするが、世の中はそういった平気で間違えている人の
方に向かって行って大変なことになる方が寧ろ「常識」なのかもしれない

と思いつつ鑑賞。

 大局観を持たずに表面だけの事象に固執し続けた挙句に上滑りを起こし
多くの人が本質的な理由もなく無駄に塗炭に塗れる時期にまたしても入ってきたの
かもしれない。

 後世の人間は、それを『歴史』と呼んでいるのかもしれない。







  



 



 
 
 
 








 


 

 




 

 
 


 
 

 
 
 
 
 
   



 
 
 
  
 
 


 


 
 
 
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 

   


 
 






 


 

 


 

 


 
  

 
 
 







 



  

   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   
   

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2018年3月 4日 (日)

2018年3月4日の風景

 

 普通に、感じること。

 発明され、それが普及された先に自分が居て、

 そのツールによって自分は運ばれて、或いは自分を運んで現時点にいる。

 それらが発明されて普及していなければ自分はここにはいない。

 またこうして、日々の仕事をしてはいないだろう。

 では、もしツールが普及していなかったならば

 自分はどこでどうしていただろう。

 
 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2018年3月 3日 (土)

映画「御誂次郎吉格子」

「御誂次郎吉格子」
おあつらえじろきちこうし


原作: 吉川英治
監督: 伊藤大輔
脚本: 伊藤大輔
撮影: 唐沢弘光
編集: 唐澤弘光
出演: 大河内伝次郎,伏見直江,伏見信子,高勢実乗,山本礼三郎,山口佐喜雄

時間: 60分 (1時間 0分)
製作年: 1931年/日本

(満足度:☆☆☆☆☆)(5個で満点)
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 オープニングの狭い狭い船室内での立ち回りの凄まじさ。役人達にひたすら
斬りつけ転げ回る"偽"鼠小僧。

 日頃の訓練がなければそうは出来ない立ち回りである。

 お寺参りのシーンの迫真性とリアリティの素晴らしさ。無数の蝋燭と慌しく願を
掛けて往来する人々。「時代劇観ている快楽」にただひたすら酔いしれる。

 主人公の鼠小僧次郎吉がかつて盗みを働いた為に困窮の身に堕ちた男と娘。
貧民窟の描写と屈託無く遊ぶ子供達の風俗描写の完璧さ

 岡っ引きの世界、武家社会の世界、町民の世界、商人の世界、各階級には
厳然とした目に見える境界があり、それを映像化することが本来の時代劇の、
映画の本質的な役割の一つである。

 また、クライマックスの周囲を埋め尽くす"御用提灯"の美しさと構図としての
計算されたシュールな美しさ。カラーで見たら余りの美しさに失禁するかも
しれない。"御用提灯"については「切られ与三郎」(1960年)で完成を見ている。
「この首一万石」(1963)でもやはり提灯を含めた明かりにはとても気を配った撮影が
されている。どこまでが伊藤自身の拘りなのかまたは主要スタッフの手腕による
ものなのか興味深い。

 そして、「下郎の首」(1955)、「この首一万石」 でもそうであるが、伊藤大輔の描く
世界では、登場人物が主人公だろうと誰であろうと一切の『例外』は認められない。
死地に陥った人間はやがて死に至り、狂った歯車はどこまでも狂い続ける。
まるで「レオン」(1994)のような生と死の臨界の中で交差する男と女の運命。
細かに挿入される太鼓の連打。

 

 「カッコイイ」の一言に尽きる。



 

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