映画

2021年5月 2日 (日)

映画と賞を取ることについて関係性における独り言

  
 お隣の国の作品(正確には違うらしいが)がアカデミー賞を賑わした
というのでいつものように「翻って我が国は、、」という論調を見かけるが
いつものように「違和感」しか感じない
 

 邦画がなかなかアカデミー賞などで賞が取れないのは日本の映画制作の
システムに問題があってもっと予算を投じ、人材を育てないといけない。
 

 それは、そうだろう。"ある面"においては。異論はない。異論を立て
ようもない。

 では、
 
 海外でジャンジャン、ジャブジャブ賞を取って、それが当たり前の
状態の「邦画」とは一体どんな姿・形なのだろうか?そういう発想や
発言は余り見ないような気がする。
 
 スポーツ界におけるサッカーや野球のように映画における日本人の監督や
俳優や撮影監督や音楽監督、編集、衣装の担当の方が当たり前のように
スポットを浴びアメリカや海外に頻繁にトレードされ活躍するようになる。。
 
 それはどんな作品がアウトプットされれば実現されていくのだろうか?

 映画とは基本『文脈』であり、観客はそこに溜飲を下げるという要因が
上記のような状況が常態化しそうもない理由ではないだろうか。
 
 逆に言うと、海外で評価を得たいのならターゲットに対して受ける『文脈』
にすればいい

 
 〇〇と差が開いていくばかりである実に嘆かわしい。

 というのは、文脈のチューニングを「賞を取るレースに合わせろ」と
言っているに等しい。
  
 良いか悪いかの問題ではない。

 海外で受けない理由に文脈の固有性があることは疑いないだろう。
文脈の固有性を変更すると表現されている多くの焦点が変更を強いられるか
意味不明なものに陥り、本来届けたい対象の観客はストレスを感じることだろう。
ただ愉しみたいだけの層にとっては有り難い変更なのかもしれないが。
ソフトウェア開発でいうデグレードという奴。

 もう一つの方向性も勿論あるだろう。拘り抜いて拘り抜いて拘り抜いて
且つ『普遍性』のある作品にすることで、結果的に評価を得るという方向である。
こちらが『映画』という何かが目指す本来の王道であることは言うまでもない。
至難の技であることも同時に言うまでもない。

 今後、拘りと普遍性の融合を果たす専門性の人やファクターに注目が集まる
かもしれない。このセクションの担当の人が居るかいないか(この点について
投資しているかしないか)の議論も活発になっていくかもしれない。

 取りうる選択肢 A.~D. 

 A. 賞を取りやすいように「チューニングしやすい環境」を構築し人材を育てる。

 B. 拘り抜いた作品を制作できる環境を作る。

 C. 可能な範囲でAorBを目指す。

 D. 放っておいて結果に任せる。

 一番難しいのは B.であるが目指す方向性としては C→B とすべきであるなんて
わざわざ言うことでもない気がする。言うべきだけど。

 賞を取ることを前提にしチューニングしてしまった(何かを変えてしまった、
捨ててしまった)作品から見えてくる『この世界』というものも確実にあるだろう。

 というよりも『何か』を捨てるしかない。その『何か』とは何だろうか。
 捨てさせる"力"(バイアス)はどこからやってくるのだろう。

 断片的に散らばっている捨てることを強要された『何か』。
 
 過半数を悦ばせることは無理でも決して捨ててはいけない『文脈』により
得られる『本質』(またはそれに近いもの)。

 そこはおぞましくもかなり正しく表現された『この世界』リアル・ワールド
なのかもしれない。

 パンデミックを体験したこれから先の世界では、これらの事について
少しは大切にされ、見直され、賞は取らないかもしれないが多くの人が
気付き、感動し、その結果、賞を取れるかもしれない。
 
そう考えると賞を授与すること自体が見直しに入っている時代なのかも
しれない。或いは、賞そのものの性質の見直しか。


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2020年12月 9日 (水)

映画「ジョーカー」

「ジョーカー」
Joker
  
監督: トッド・フィリップス
脚本: トッド・フィリップス,スコット・シルヴァー
撮影: ローレンス・シャー
音楽: ヒドゥル・グドナドッティル
編集: ジェフ・グロス
出演: ホアキン・フェニックス,ロバート・デ・ニーロ,
ザジー・ビーツ,フランセス・コンロイ
 
 
時間: 122分 (2時間1分)
製作年: 2019年/アメリカ

(満足度:☆☆☆☆+ )(5個で満点)
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芸人を志すアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は母と二人で暮らし、
アルバイトの大道芸人として生計を立てていた。だが、何をやっても失敗と
嘲笑の的で終わっていくアーサーは追い詰められていく。全く受けなかった
ショーの映像がテレビで取り上げられ。。
 
 
 本作において描かれるところの"ジョーカー"とは一体どんな人物なの
だろうか。

 ・社会(ゴッサム・シティ)または特定の層の人間を激しく憎んでいる。
 ・アナーキストであり孤独である。
 ・寛容性が無い。または、無いように振舞っている。
 ・罪を犯すことに躊躇しない且つ率先して犯す。
 ・恐らくは"哀しみのイコン"の一つである(いつも笑っている理由?)。
 
 これまで描かれ、今後も描かれていくであろう共通項はこんなところ
だろうか。

 「この逆」が"誰"であるのかは多くの人にとって自明である。本作中にも
関係性が上手く織り込まれていて感心しつつ予備知識が無いことで物語の展開を
素直に楽むことが出来た。

 監督のトッド・フィリップスは本作が「9.11後の世界」の作品の一つであり
社会批判をしたくて制作したわけではないと述べている。
 
 作品はその通りでクリストファー・ノーランが明解に描いて喝采を浴びた
「9.11後の世界」の黒騎士が活躍するワールドの系譜に連なる
 
 見事に構築された世界観も、ヒドゥル・グドナドッティルが奏でる音楽も
クリストファー・ノーラン版と親和性が高い。リスペクトを込めて意図的に
やっていると思われる

 アーサー・フレックという哀しい人物を丹念に追いながら彼の背景・周囲を
じっくりじっくり描いていく。物語の着実な進行の面白さに溜飲を下げつつ
その迫真性にはドキュメンタリー出身であるトッド・フィリップスの力量に
驚嘆せざるを得ない
 
 創造されたアーサー・フレックという人物は人間のある側面を正確に照査
している。主演のホアキン・フェニックスはアーサー・フレックに成りきり、
役者としてどこまでアーサーを観客に見せるのかを存分に楽しんでいる。
 
 アーサーは自分と人に楽しんでもらいたいと願い芸人をしているが肝心要の
"その術"を知っているとは言い難い。ゴッサム・シティで知らぬ者のない
名キャスターのマレー・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)にただ憧れている
点から何ら進歩していない

 芸人に向いていないのかと言ったらそんな事はなく、自尊心を持ち、少ない
ながらもテクニックを持っている。だが、それらを「社会」に向けて昇華させて
いく方法論や成功体験を持たないまますっかり年齢を経てしまった。そんな
アーサーに社会(ゴッサム・シティ)は容赦をしない
 

 「自分が倒れていても誰も気に留めず踏みつけていくだろう」
 

 ゴッサム・シティに生まれ落ちなくても芸人として大成することはなかった
だろう。自分が成功できなかったことを何かのせいにしながら小さく小さく
生きていく人間だったのだろう。トッド・フィリップスが描く人物像に
ホアキン・フェニックスは血を通わせている。本作の魅力と鑑賞する意味の多く
はこの点にある。

 ゴッサム・シティもまた現実社会のイコンとして興味深く描かれている。
上流社会から中流・下流に至るまでこの街では誰もが寂しそうである

 誰もがお互いをフォローしないことを心のどこかで知っている。
 
 本作の主人公は"ジョーカー"となる某氏だが、別の某氏も某々氏も
居るあるいは生まれていく(生まれている)ことに観客は気付き、それは
当たり前のようにゴッサム・シティという特定のエリアではない事に気付く。
 
 社会と人の関係性を余りにも鮮やかにエキサイティングに描いてしまった
為にであるから、トッド・フィリップスは前述の見解を述べておかなくては
いけなくなったのだろう。『娯楽作品である』という当たり前の事を。

 "ジョーカー"になってしまった人間が少なくとも約一名いて、社会を
妬み、羨むが"ジョーカー"にはとてもなれない無数の人間達。
 
 "ジョーカー"や他の"堕ちてしまった人間"と対峙する者。

 ゴッサム・シティを守ることとゴッサム・シティの人々を守ること。

 ゴッサム・シティの秩序を守ることはゴッサム・シティの体制を守ること
なのだろうか?

 自分の境遇から逃げるために犯罪を犯すことの正当性の矛盾。

 2時間の物語の中にこれらの芽が加速度的にばら撒かれ選択していく人々を
俯瞰するダイナミズム。

 後半では、人々は劇中から意識がやや離れ、自分自身の境遇と環境について
意識することになるだろう。

 孤独なアナーキストから憎しみのイコンへのトランスフォーメーションの瞬間と
『一体何が生まれたのか』または生まれていなかったかもしれないかについては
観客の数だけまたはそれ以上に答えがあるだろう。

 
 本作は観る側の過程も意図的に作られたことに価値がある。

 トッド・フィリップス×ホアキン・フェニックス版ジョーカーは相当に長く
「愛されていく」かもしれない。
 
 きっとアーサー・フレックはその事だけで十分に満足すべきだった
ただそれだけの人物なのだろう。だからこそ悲劇と災禍は大きく
『物語』はこれからも産まれて語られて続けていくのだろう。

 ゴッサム・シティの内外において。

 "真のヒーロー"とは一体なのだろうか。


 
 
 
 
 

 彼は有名な犯罪者ではなくアスファルトに咲いた小さな花。その花に、
あなたは水をあげるのか、光をあててあげるのか、それとも無視するのか。
どれくらいの間、その花を好きでいられるのか。
 トッド・フィリップス (「ジョーカー」監督/共同脚本/制作)


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2020年7月24日 (金)

映画「魂のゆくえ」

「魂のゆくえ」
First Reformed
 
監督: ポール・シュレイダー
脚本: ポール・シュレイダー
撮影: アレクサンダー・ダイナン
音楽: ラストモード
編集: ベンジャミン・ロドリゲス・Jr
出演: イーサン・ホーク,アマンダ・サイフリッド,セドリック・カイルズ,
ヴィクトリア・ヒル


時間: 113分 (1時間53分)
製作年: 2017年/アメリカ

(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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 ニューヨークの小さな教会で牧師を務めるエルンスト・トラー牧師
(イーサン・ホーク)は、息子が戦死したことについて心のどこかで自分を
責める日々を送っていた。運営資金面で形振り構わぬ姿勢を見せる教会の
方針にも納得のいかないトラーは別れた妻とも上手くいかず孤立を深めて
いく。そんな最中にトラーはメアリー(アマンダ・サイフリッド)と出会い
互いに惹かれていく。。
 
 
 静かな映画。教会周辺の風景とトラーの周辺で起きていく人間模様と事件。
「映画とは静けさであり抑制である」とすれば本作は要件を十分に満たして
いる。
 
 一つ一つのシーンと会話の積み上げとトラーの心象を映すかのような
寂しくも美しい風景、出演者の空気から製作者側が「『映画』を撮っている
悦び」と演者の演技るす喜びが感じられる。監督のポール・シュレイダーは
本作を自信の集大成と言っておりその通りの気合いの入り様を見てとれる。
物語の進行を楽しみながら同時に画面全体に漲る緊張感を好ましく思いつつ、
"映画という壮大な時代の終わり"を感じざるを得ず、それはトラーが自ら
陥っていく境遇とリンクしているかのようだ。

 監督のポール・シュレイダーは伝説の作品「タクシー・ドライバー」(1976)で
脚本を務めている。本作では映画に関する知識がそれほどなくても 
観客は同作の主役であるロバート・デニーロが演じたトラヴィスと
トラーの姿を自然と何度も重ねることになる。
 
 しかし、トラーとトラヴィスでは落ちていくという点では似ているが
他の点においてはまるで違うと言っていい。

 トラヴィスはベトナム戦争で従軍した過酷な体験と日々の孤独な生活が
あるとはいえ、狂気を自ら向かい入れていく。トラーは抵抗し続ける。
そして、トラーには踏みとどまれるチャンスも理由もある。

 だが、狂気へと落ちていく本質的な「弱さ」と、イーサン・ホークが
丁寧に演じる弱さと脆さゆえに落ちていく逆説構造のリアル。
 
 ある層にとって絶望的な状況にある映画という構造の危機と脆さにも
重なる。こんな作品はもうそう簡単には作れないだろうという諦めと
時代の黄昏を作品自体に見る。

 問題に対して有効な対策を取れないことへの苛立ち・怒りの弱さは
どこから来るのだろうか。

 トラーは、敢然と立ち上がり、教会の運営元を非難し、大衆を扇動して、
信念という光に向けて突き進むということはしない。全くしないという
ことではなく彼なりの手は尽くそうとするが現状打破できないことを
心のどこかで最初から知っている。
 
 原題の"First Reformed"については特定の教派を示すものという説明を
しているサイトもあるがその地域で最初に作れた教会との意味付けでよい
らしく"First Reformed Church"というのはアメリカの各地にあるとのこと。
Web上での幾つかの指摘に見られる通り主人公トラーの心の"形"の原型、
深淵に触れる意味を観客はそこから感じとれなかなか良いタイトルだと思う。
訳すのは文化的な相違の大きさからちょっと無理だし、訳さないで片仮名に
してまっては本作の魅力が伝わらない。「魂のゆくえ」は賢明な邦題と
言えるだろう。

 志の原点に帰りたいが術が判らずに分かったとしても進むパワー
を持たないトラーと原点回帰しようと持てる力を総動員して制作された
本作の魅力と、その結果思い知らされる決して戻れない絶望。

 多くの人が本作観て、愉しみつつそれぞれにとっての映画の位置と
そこには一体何があって今できることは何か、考え行動に移していけば
またきっと面白い作品がどこの国でも生まれていくだろう。
 
 絶望を断ち切れず深めていく牧師というある種の矛盾を描くことで
「希求」を描く良質な2時間。
 

 これこそ、『映画』だ。

 
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2020年5月 1日 (金)

映画「愛の渇き」

「愛の渇き」
 
原作: 三島由紀夫
監督: 蔵原惟繕
脚本: 藤田繁矢,蔵原惟繕
撮影: 間宮義雄
音楽: 黛敏郎
美術: 千葉和彦
出演: 浅丘ルリ子,石立鉄男,中村伸郎,山内明,楠侑子,小園蓉子,紅千登世


時間: 99分 (1時間39分)
製作年: 1967年/日本

(満足度:☆☆☆☆+ )(5個で満点)
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夫を亡くした悦子(浅丘ルリ子)は義理の父である弥吉(中村伸郎)と
関係を重ねる一方で使用人の青年三郎(石立鉄男)に惹かれていく。。
 

 旧世代の体現者として、一家の長としての権限を着実に行使し「家」を
堅持してきた弥吉。その権力掌握の強固さと手腕の見事さに手を出せずに
ヤサグレているだけの長男夫婦。
 
 浅丘ルリ子演じる未亡人の悦子はその活動を終えつつある『黒い太陽』
である弥吉に身を捧げる以外に成す術などない(なかった)。
 
 若さの無邪気な熱気に溢れる三郎を演じる石田鉄男も素晴らしい。

 アプレ世代の三郎は自らの熱と、その熱に悦子が勝手に翻弄されている
ことを知ってか知らずか判然としない。
 
 老成した長(おさ)、
 
 やさぐれる中間層、
 
 袋小路に陥った女、

 次世代の若者、、
 
 四者は互いの事情など意に介することなく、その事を一切表に出さない
事で完全な密室劇が構成されている。

 弥吉は、『力』で掌握し続けようとするが自身に迫りくる老いに限界を
感じている。
 
 長男夫婦は、自分達に弥吉の世代ほどの絶倫振りも権力を司る力も執着も
ないことを嫌というほど知り抜いている。
 
 悦子は、弥吉の長期政権時代の終わりを自覚しつつも流されていくしかない
自分を呪い、『復讐』を考え始める。
 
 三郎は、そんな大人達を内心では冷ややかに眺めている。

 彼らが一同に揃う食事のシーンは、これらの力関係が激しくつばぜり合いを
繰り返す瞬きも出来ない名シーンであり、本作の白眉である。

 『斜陽』という言葉を演出、演技、撮影、美術、音楽一体となって余すこと
なく映像化した傑作。
 
 原作者である三島由紀夫が激賞したのも頷ける秀作である。

 
 監督の蔵原惟繕(くらはら これよし)は「南極物語」(1983)の監督であり、
同作は配給59億円の大ヒットとなり1993年まで国内における配給収入歴代1位の
座にあった。
 
 蔵原惟繕と共に脚本を手掛けた藤田繁矢は藤田敏八(ふじた としや)として
「修羅雪姫」(1973)、「修羅雪姫 恨み恋歌」(1974)を監督している。
 
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2020年4月29日 (水)

特撮映画における或る命題について

 
 「シン・ゴジラ」(2016)の名(迷)コンビ(?)が"シン"ウルトラマンを描いて
くれることが決定してだいぶ経つが大変喜ばしいことだ。
 
 そして、その作品はきっと「実在論」「実名論」の闘いを作中の背後に
置いてテーマの一つとして描くか、正面立って描き決着を着けるものとなり、
或いは、作品の成立過程そのものが熱い闘いとなることを強く予感させる。
 
 言うまでもなく「シン・ゴジラ」は実在論路線において成功した作品であり、
「ゴジラ」(1954年版)、 '84ゴジラ(「ゴジラ」(1984年版))もまた然りである。
 
 果たして、ウルトラマンを実在論で描くことは難しいだろう。実名論の上に
成立している存在であることは自明だからだ。

 さらに難しいのは異物は、即、敵として描くことは本能的に、生理的に有りだが、
味方であるという認識を実在論において描くこともまた極めて困難である。
 
 個を描き、孤立を悪とすることは容易であるが善という集団的コンセンサスを
得るのは実際、不可能に近い。
 
 実名論と実在論のどちらかで描くことは客層ターゲットをどこに置くかという
マーケティングの点においてもなかなか難しい選択となるだろう。
 
 個人的には実名論で描かれる世界には余り興味が無い。実在論に是非挑んで
欲しい。

 勝手な推測を愉しめば、脚本を担当する庵野秀明は実在論の中で葛藤し、監督の
樋口真嗣は実名論の中で思う存分に戯びたいのだと思う。特に樋口氏の方は
「シン・ゴジラ」でのある種の消化不良をこちらの作品でどこまで爆発させるのか
見物である。"前作"においては庵野がアクセル役、樋口はブレーキ役となったが
今回は逆になるのであろう。

 虚構VS現実(日本)は、今回もまた繰り広げられることが宿命付けられて
いるのかもしれない。

 
「シン・ウルトラマン」2021年公開予定
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2019年12月29日 (日)

映画人を偲ぶ 西岡善信

 
 
 今年逝去された映画人の中では美術監督として数多くの作品を手掛けた
西岡善信(にしおか よしのぶ)氏が個人的にはとりわけ印象深い。
(10月11日に97歳にて逝去)

 氏が手掛けた作品では自分は以下の作品を鑑賞している。
 

「226」(1989)
「歌麿 夢と知りせば」(1977)
「刺青」(1966)
「大殺陣 雄呂血」(1966)
「雁の寺」(1962)
「切られ与三郎」(1960)
「炎上」(1958)
  
 いずれももう一度じっくり観てみたい。筋は追わずにただただじっと眺めていたい
そんな作品ばかりだ。比較的近作に入る「226」は突っ込みどころがいくらでも
見つかる作品ではあるかもしれないが、(「バブルと軍靴と映画」ご参照)劇場で観た
当初より「美しい作品」だと感嘆した印象は今も変わらない。
 
 映像京都という制作プロダクションを1972年から2010年に渡って牽引し、
1994年にKYOTO映画塾の塾長に70過ぎで就任するなど経営者として、また後継者の
育成にも手腕を発揮された功績は広く知られて良いだろう。

 所謂、映画作りというものはこれから益々困難になっていくことは想像に難くない。
それは、現場の人材面の問題も勿論大きいが資金の流れを管理と統括をする制作面での
プロフェッショナル(面白い作品を作るために資金を投入できる人間という意味)が
少なく且つ育っていないことにあるように思うがどうだろうか。

 西岡氏は、映画を本当の意味でゼロから作れる人間の一人だったのではなかろうか
と思う。

 氏の作品が今後も観られ続け、氏の功績が語られ、『映画』という後続が作られ
続けることを氏も望んでいるのではなかろうか。
 
 
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2019年5月25日 (土)

映画「Wの悲劇」

「Wの悲劇」

原作: 夏樹静子
監督: 澤井信一郎
脚本: 荒井晴彦,澤井信一郎
撮影: 仙元誠三
美術: 桑名忠之
編集: 西東清明
音楽: 久石譲
出演:薬師丸ひろ子,世良公則,三田佳子,三田村邦彦,
高木美保,蜷川幸雄,志方亜紀子,清水紘治,南美江,草薙幸二郎,西田健,
香野百合子,日野道夫,仲谷昇,梨本勝,福岡翼,須藤甚一郎,藤田恵子

時間: 108分 (1時間48分)
製作年: 1984年(昭和59年)/日本

(満足度:☆☆☆☆+ )(5個で満点)
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 群像劇のように見えて(群像劇でもあるのだが)、どちらかと言うと、
『モザイク』そのもののように見える作品。実際、本作は制作段階の
方向性から"そうなる事"を宿命付けられた作品と言える。

 そして、本作においてはモザイクであることが作品に力強い推進力と
立体感を与えていてステンドガラスのように輝きを与えている。それは
同時にアウトプットされた結果そうなったとも言える。

 監督の澤井信一郎は原作の映画化が目的「ではなく」、薬師丸ひろ子の
「今」を撮りたかったとの事だが、その目的は十分に、ほぼ完全に達成
していて薬師丸を含めた若者達の行動、熱さとのその自然さが本作の
最大の魅力となっている。
 
 原作を無視することを承諾した上で受けたという荒井晴彦の脚本は
原作そのものは劇中劇に押し込め、荒井の手掛ける他の作品とも大きく
共通する「若さを"持て余し"、それ事体に懊悩する若者」を前面に押し
出している。

 「図らずも」なのかどうかは荒井の脚本はいつも「よく判らない」
のだが往年の個々の作品としてではなく映画界全体として持っていた
"熱さ"と、"厚さ"が本作から感じられる。それこそが制作側と荒井の
意図で且つ目的なのだろう。

 世良公則演じる森口昭夫は挫折していく自分を認められない"痛すぎる
設定の役柄"の為、演者が見つからずに世良まで廻ってきたという。

 昭夫の挫折に気付いてはいるが自らと向き合えない姿は多くの普通で
ある事を自覚せざるを得ない人々の心胆寒からしめる。誰も演じたがら
なかったのは当然で、引き受けた世良がまた実に良く似合っているのだが、
これは徒手空拳で人気を物にした世良は(多分)よく理解して演じていて
率直に称賛するべきだろう。
 
 昭夫の余りの見当違いを確信し断言するその台詞は、「間違い
ではないのか?」と思ってしまうほどで、観客に伝わる痛みは、荒井の
「目的」なのだろう。荒井はまたある程度まで計算で書いており、
ある程度以上は、現場の力を信じているのではと思われる。本作は
"それ"が成功した例だろう。

 演出家として出演し、実際に本作の演出も手掛けている蜷川幸雄も
作品のパワフルさ、熱さに多大な貢献をしている。監督、脚本、演出
それぞれが独自の方向に作品を引っ張ろうとする、そして引っ張っていく
広がる力そのもの自体が本作の大きな魅力で見どころだろう。荒井晴彦の指す
『映画』とは恐らくこういった方向性のものなのではないか。

 若手俳優達の熱量という「魅力」を引き出すために物語は破綻して
いても構わないという制作側の熱意、三田を中心とする中堅・ベテラン
俳優達のあるべきフォローとしての役割と観客に与える立ち位置の
安心感と安定感もまた観ていて楽しい

 ヒロインの決断と孤独。本作とは「逆」の結末に生きた世の中の
無数の人々。それはそれで幸せとも不幸とも言えないという人生という
ものの面白さ。
 
 今後、"時代の熱さ"をフィルムに焼き付けた事そのものが何度も
評価をされていく作品だろう。

 
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2019年1月19日 (土)

映画「ボヘミアン・ラプソディー」

「ボヘミアン・ラプソディー」
BOHEMIAN RHAPSODY
 
 
原案: アンソニー・マクカーテン,ピーター・モーガン
監督: ブライアン・シンガー
脚本: アンソニー・マクカーテン   
撮影: ニュートン・トーマス・サイジェル
音楽: ジョン・オットマン   
音楽監修: ベッキー・ベンサム   
エグゼクティブ音楽プロデューサー: ブライアン・メイ,ロジャー・テイラー
編集: ジョン・オットマン
衣装デザイン: ジュリアン・デイ
出演: ラミ・マレック,ルーシー・ボーイントン,グウィリム・リー,ベン・ハーディ,
ジョセフ・マッゼロ,エイダン・ギレン,トム・ホランダー,アレン・リーチ

時間: 135分 (2時間15分)
製作年: 2018年/アメリカ

(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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 「クイーン」という70年代初期から80年代にかけて活動した伝説のバンドを
実質的に知らない人々(自分もその一人)には純粋なエンタテイメント作品として、
知っている人々や音楽やロックを語れる人々は存分に、当時を知らない後世の
人々にとっては全てが新しく驚きと共に。

 多くの人々、多様な客層に観てもらう為の要素が本作には多い。世界的な
ヒットは決して偶然ではなく、製作者も十分に狙っていたものだろう。「愛」、「孤独」、
「家族」、「友情」、「富と名声への果て無き欲求」、「裏切り」、「和解」、、、

 "彼ら"が世の中に認められていく様のスピード感は単純に心地よく、ありきたりな
表現をすれば"ジェットコースター"的であり恐らく映画的な見地から不評なのだと
すれば"コンフリクト"の不足という点においてだろう。だが、それは、本作に限った
ことではなくここ10年の、またはそれ以前からのマーケティングリサーチ的側面
言える。

 個人的には、実質的な主人公のマーキュリーのキャラクターと3人のメンバーの
壊れそうで壊れない関係の微妙さが丁寧に描かれているのが好感を持って観た
メンバー四人がそれぞれ学業に専念していた基盤を持つことと割と関係があると
思う(ボーカル担当のフレディ・マーキュリーはデザイン、ギターのブライアン・メイは
天文学、ベースのジョン・ディーコンは電子工学、ドラムスのロジャー・テイラーは
生物学)。

 音楽的素養は勿論の事、青年期においてそれなりの人生の辛酸を既に体験
しているメンバーは着実に成功の階段を上がっていくがフレディはある意味、
当然のように驕り、自分を見失っていく。

 元々のアイデンティティがそもそも何のか、『自分』と何の関係があるのか、
あったとしてもそれが何も意味するのか、富と名声を手にしたとしても、それで、
"全て"が手に入るのか。

 およそ世界中の誰もが思い、想像し、体験し、悩む事をフレディとクイーンという
バンドとそのワールドを通して観客は疑似体験しつつ自分の人生をフィードバック
して共感する。それは、制作陣の狙いであり正しいアプローチで、成功している。

 余りにも衝撃的な歌詞と、余りにも美しい楽曲、余りにも儚い「青春」の一端を
凝縮して表現しているタイトルともになっている「ボヘミアン・ラプソディー」を初めて
聴いたのは高校生の頃だろうか。恐らく、作詞・作曲したフレディが想定した歌詞の
中の"私"の年齢の頃。

 一瞬一瞬が音を立てて流れ去り、決して戻ることのない恐怖。

 "部分否定"ではとても気が済まない。全てを得られるはずもないことは判って
いるから、いっそ全てを葬り去ることを思い決めてしまいたい頃。

  All or nothing.

それができないのであれば、、

 白眉であり、最も好きなシーンはメンバーの絆がより深まる後半のとても静かな
シークエンス。

 マーキュリーを演じたラミ・マレックは、通常なら2ヶ月程度である役作りの期間を
本作においては一年要したとのこと。
それが大袈裟ではないことは作品を観れば
充分に伝わってくる。

 監督のブライアン・シンガーは途中で降板している模様だが、撮影監督の
ニュートン・トーマス・サイジェル、編集のジョン・オットマンなどベテラン陣が脇を
しっかり固めているせいか、何も気にならない(二人は「ユージュアル・サスペクツ」
(1995)、「スーパーマン リターンズ」(2006)などを手掛けている)。

 本作は、『映画』という集団で作成していく総合芸術として多くの要因が奏効した
好例の一つと言えるかもしれない。

 これからも、本作も、『クイーン』というバンドも、メンバーも、彼らが"揃って活躍した"
その時代も発見され、称賛され、愛され、批評され、検証され、考証され、時には
否定され、また、発見され、称賛され、愛されていくのだろう。

 何よりも、今も精力的に活動している当事者中の当事者、ブライアン・メイと
ロジャー・テイラーが満足した作品となっているのも何より幸いである。
 
 
 時が止めどなく過ぎて、人々も数多の生命も生きて、やがては死んでいく。
そんな当たり前の事がとてつもない事なのだと気付いて後悔しながら。
 
 
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2018年12月27日 (木)

映画「ブルークリスマス」

「ブルークリスマス」


監督: 岡本喜八
脚本: 倉本聰
撮影: 木村大作
美術: 竹中和雄
編集: 黒岩義民
音楽: 佐藤勝
出演: 勝野洋,高橋悦史,沖雅也,岡田英次,竹下景子,仲代達矢,大滝秀治,
八千草薫,天本英世,岸田森

時間: 133分 (2時間13分)
製作年: 1978年/日本

(満足度:☆☆☆☆+)(5個で満点)
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世界中で謎の円盤UFOの目撃が増加すると機を同じくして"青い血"を持つ人間
もまた世界的に増加していた。各国政府は秘密裏に青い血の人間を隔離し、
抹殺を謀ろうとしていた。。


 撮影の困難さと、予算の限界からの決断だと思えるが、

「映像表現としての超常現象」を気持ちの良いくらいに「バッサリと捨て」て、

人間達の行動に端を発する世の中の異常な状況と、緊迫感を描こうと試み、
そして、成功していることにまずは拍手を送りたい

 "青い血の人間"は、ある理由により血中の成分が変化して青に変わるとか
(劇中ではイカの血液は青色だと述べられている)。

 "青色血液人間"を忌み嫌うことから「排除」しようとする世界の表層の描写は
「とても上手く」描かれていて、後年のリアル世界で実際に起こる出来事を適格に
予言していて、時代を先駆けているとさえいえる

 だが、その排除の力と、システムの正体を断定していく後半は、その方向性の
"安易さ"により急速に映画が「つまらなく」なる

 青色血液人間の増殖と、

 赤色血液人間との差が

『不明』だから彼らを恐怖の対象として煽る正体が、なぜ"それ"なのだという
結論になるのか。

 その『なぜ』をこそ問いただすと、人間達の無知と、無智と、無恥に鋭く警鐘を
鳴らし啓蒙する地点まで行き着く(はず)なのだが本作はそこまで斬り込めていない
ところに『戦後なるもの』の胡散臭い思考停止と70年代という時代のある種の
ヌルさと限界を感じてしまう。
それは、日本的なものであるのかどうか、そろそろ
総括できても良いだろう
。 
 

 さて、ところで、、、

 防衛庁の戦闘機の管制室の描写やスクランブルの演出、

 夜の高速道路の車中での描写、

 主要キャストの竹下恵子と勝野洋のアップの切替し、照り返す光、、

ってこれって、、「某アニメ映画作品」の世界観"そのまんま"ではないか!

 カメラアングルや編集の妙に至るまで「なんとなく似ている」レベルではなく
本作から相当に"拝借している"ように思われる。。
 

 綻びや不満な点はあるが、それでも、

 うつー人  

及び 、

 うつー人 の乗り物

を、"一切描かずに製作されたSF作品"としては少なくとも邦画においては
最高峰にして到達点の一つなのではなかろうか。

  岡本喜八監督作品として群像劇としても良く出来ており、倉本聰の脚本、
やがて時代のアイコンとなっていく竹下景子の本格デビュー作品、邦画を支え
続けていく至宝となる木村大作の撮影、レジェンドと呼ばれていくであろう個性
豊かな俳優陣。実に多面的に楽しめる作品でもある。

 今後、再評価され続け、また上記の「ある理由」により時に着目され、
時代の要所・節目においても注目されていく秀作と言える作品だろう

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2018年12月 9日 (日)

映画「鏡」

「鏡」
ЗЕРКАЛО
The Mirror


監督: アンドレイ・タルコフスキー
脚本: アンドレイ・タルコフスキー,アレクサンドル・ミシャーリン
撮影: ゲオルギー・レルベルグ
音楽: エドゥアルド・アルテミエフ
挿入詩: アルセニー・タルコフスキー
出演: マルガリータ・テレホワ,オレーグ・ヤンコフスキー,イグナート:イグナト・ダニルツェフ

時間: 108分 (1時間48分)
製作年: 1975年/ソビエト

(満足度:☆☆☆☆☆+)(5個で満点)
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女は柵に腰掛けて煙草を燻らせていた。通りかかった医者は、その女にひどく
惹かれ、診てあげようと言い寄る。女はくたびれた表情で笑おうともしない。
夫は長く帰らずに、家は中も外も廃れている。子供達は屈託無く庭で遊んでいた。
ある日、家の前の納屋が激しく燃え上がる。女はただ呆然とその炎を眺めていた。
少年はそんな"母"を、そして惨めな自分の人生をただひたすら冷徹に眺め続ける。。


 タルコフスキーの作品には終末観のようなものが画面を色濃く覆っていて、本作も
そうだ。「ストーカー」(1979)や、「ノスタルジア」(1983)と複雑な相関関係にあり、先の
二つの作品がより"映画作品(興行製品)"であり"物語"であるとすると、本作は
人間の脳に直接侵入してこようと試みているかのような全く別次元の作品に
感じる。

 冒頭から、マルガリータ・テレホワ演じる妖艶で魅惑的な女性は生きているのか
死んでいるのか判らないような危険な虚ろさで、子供達の世界は唐突に水浸しになり、
子供達の飲むミルクがこぼれていようが、家の床が、壁が、酷く汚れ傷んでいても、
妻がいかに精神を病んでいても、家族同士、知人同士、子供も大人も全ての
人間が徹底的に他者に無関心であり、孤立している。

 彼らの喋る「言語」は、コミュニケーションを円滑にするツールとしての本来の
機能を全く有していない。
それは、実に衝撃的な描写であり、人類の終焉
文明の破滅を強く暗示させる。

 そして、それらの絶望的な仕組みの総体的な脆弱性を、人々の制度の運用する
力の無さと他者への無意識的有意識的な悪意を、タルコフスキーは少年の頃から
直感的に見抜き、ある年齢からは確信を持って眺め多くない作品のほとんど全てに
背景色として使用しているのではなかろうか。

 エドゥアルド・アルテミエフの音楽がとても効果的で、少年の、女の、人間として
生きることそのものの"苦痛"と、"叫び"そして、他者への"不信"と、"怖れ"
映像と一体となって盛り上げている。

 繰り返し観たい思う作品はそれほどないが、本作については数年に一回は
どうしても見返したくなり、観なくてはならない使命感のような気持も同時に湧き
あがる。さらに、観る度に初めて観る感動が保証されていることの強い確信もまた。

 東西の政治的な壁が大きく揺らぎはじめた1984年、タルコフスキーは事実上の
亡命宣言をする。ゴルバチョフのペレストロイカは翌年に迫っており、宣言する
必要はなかったとも。

 タルコフスキーは、主役の女性の呆然とする以外に無いやるせなさに自分を
含む無数の人々の思いを投影したのだろうか。
 

 タイトルそのままに。

 

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