映画と賞を取ることについて関係性における独り言
お隣の国の作品(正確には違うらしいが)がアカデミー賞を賑わした
というのでいつものように「翻って我が国は、、」という論調を見かけるが
いつものように「違和感」しか感じない。
邦画がなかなかアカデミー賞などで賞が取れないのは日本の映画制作の
システムに問題があってもっと予算を投じ、人材を育てないといけない。
それは、そうだろう。"ある面"においては。異論はない。異論を立て
ようもない。
では、
海外でジャンジャン、ジャブジャブ賞を取って、それが当たり前の
状態の「邦画」とは一体どんな姿・形なのだろうか?そういう発想や
発言は余り見ないような気がする。
スポーツ界におけるサッカーや野球のように映画における日本人の監督や
俳優や撮影監督や音楽監督、編集、衣装の担当の方が当たり前のように
スポットを浴びアメリカや海外に頻繁にトレードされ活躍するようになる。。
それはどんな作品がアウトプットされれば実現されていくのだろうか?
映画とは基本『文脈』であり、観客はそこに溜飲を下げるという要因が
上記のような状況が常態化しそうもない理由ではないだろうか。
逆に言うと、海外で評価を得たいのならターゲットに対して受ける『文脈』
にすればいい。
〇〇と差が開いていくばかりである実に嘆かわしい。
というのは、文脈のチューニングを「賞を取るレースに合わせろ」と
言っているに等しい。
良いか悪いかの問題ではない。
海外で受けない理由に文脈の固有性があることは疑いないだろう。
文脈の固有性を変更すると表現されている多くの焦点が変更を強いられるか
意味不明なものに陥り、本来届けたい対象の観客はストレスを感じることだろう。
ただ愉しみたいだけの層にとっては有り難い変更なのかもしれないが。
ソフトウェア開発でいうデグレードという奴。
もう一つの方向性も勿論あるだろう。拘り抜いて拘り抜いて拘り抜いて
且つ『普遍性』のある作品にすることで、結果的に評価を得るという方向である。
こちらが『映画』という何かが目指す本来の王道であることは言うまでもない。
至難の技であることも同時に言うまでもない。
今後、拘りと普遍性の融合を果たす専門性の人やファクターに注目が集まる
かもしれない。このセクションの担当の人が居るかいないか(この点について
投資しているかしないか)の議論も活発になっていくかもしれない。
取りうる選択肢 A.~D.
A. 賞を取りやすいように「チューニングしやすい環境」を構築し人材を育てる。
B. 拘り抜いた作品を制作できる環境を作る。
C. 可能な範囲でAorBを目指す。
D. 放っておいて結果に任せる。
一番難しいのは B.であるが目指す方向性としては C→B とすべきであるなんて
わざわざ言うことでもない気がする。言うべきだけど。
賞を取ることを前提にしチューニングしてしまった(何かを変えてしまった、
捨ててしまった)作品から見えてくる『この世界』というものも確実にあるだろう。
というよりも『何か』を捨てるしかない。その『何か』とは何だろうか。
捨てさせる"力"(バイアス)はどこからやってくるのだろう。
断片的に散らばっている捨てることを強要された『何か』。
過半数を悦ばせることは無理でも決して捨ててはいけない『文脈』により
得られる『本質』(またはそれに近いもの)。
そこはおぞましくもかなり正しく表現された『この世界』リアル・ワールド
なのかもしれない。
パンデミックを体験したこれから先の世界では、これらの事について
少しは大切にされ、見直され、賞は取らないかもしれないが多くの人が
気付き、感動し、その結果、賞を取れるかもしれない。
そう考えると賞を授与すること自体が見直しに入っている時代なのかも
しれない。或いは、賞そのものの性質の見直しか。
---------------------------------------------------------------
映画感想一覧>>
| 固定リンク
最近のコメント