東京漂流某日(十七)
東京で大した野望も無くどうってことなく生きる
或る男の漂流記・・・
chapter17: 飛翔(2) 墓標
黒猫は黙々とキーボードを打ち続けていた。必要のないデータは
削除し、使えそうな資料は引継ぎ用のフォルダーに移す。入社した
ばかりの時には、ただの一行も理解できなかったコードやシステムの
説明資料が、今やすっかり手垢がつき、懐かしくすらあった。
最後の大きな不要データをゴミ箱に移し、さらに完全に消去して
[Enter]キーを押すと、黒猫は天井を見つめて深呼吸を一つした。
今日、黒猫は鼎での最後の出社日を向かえていた。鼎はもともと
10人にもみたいない小さな会社だったが暫時的にリストラを行い、
今では出向にも出せる人間は全て出していた。今日はまるで休日に
出社したかのようにオフィスにはほとんど誰もおらず静まり返っている。
というより、ひっそりとしていた。速目は、近頃では会社を休みがちに
なって余り出社しなくなっていた。
「駿君が去って、黒猫君も辞めて、これで、わが社も終わりですね。」
犬鷲が黒猫に近づいてきて話しかけるでもなく独り言のように呟いた。
肯定も否定もせず、黒猫は黙って聞いていた。
「きっと、そうなのだろう。」
黒猫は特段奢ったわけでもなく、率直にそう思った。たとえ、仕事が
来たとしても、残っている今のメンバーではとてもこなすことはできない。
出向にも出せないスキルの未熟な人間を食わしていくことも相当に
難しいだろう。
だが、、
「思えば、君が入社して、駿君と連日のように議論していた時。
あの時が、わが社の最盛期でした。」
かつて、皆で大量のコードの紙を並べて品評会のように意見を述べ
合った大きな丸いテーブルに犬鷲は近づいて続けた。
確かに、あの時の活気が今ではまるで嘘のようだ。それから、しばらくは、
逆に出向の社員を受け入れることもあって、彼等は毎日朝早く出社して
掃除をしてくれたり自分の机まで丁寧に拭いてくれたりしてくれていたっけ。
確かに、設立して何年なのか知らないが鼎のほんのひと時の"栄光の時"
を黒猫は体験できたのかもしれないと思った。
犬鷲は、社長と二人だけになって、またきっと何かしらの事業を
続けていくのだろう。もしかしたら、この二人は昔からそうやってきた
間柄なのかもしれない。
黒猫は漠然とそう思った。駿も、速目も、自分も、他の従業員も、
まさか、誰もこの会社で定年を迎えようなどとは洟から思っちゃいない。
社長は犬鷲という人間に自分の会社を託し、犬鷲は黒猫を含めた
人材をその時々に集め、仕事を回し、一時の隆盛を得て、そして瞬く
間に落日を向かえ、会社を恐らくは畳もうとしている。そんなことはお構い
なしに黒猫は駿達に出会い、駿は去り、黒猫もまた次のステージへと
旅立つ。
この会社に集った人間で大きく得をした人間はいなかったかも
しれない。だが、大きく損をした人間もきっといなかっただろう。
何かの偶然で集まるべくして集まり、そして、必然として、
去るべくして去るのだ。黒猫にとって、「今日」がその日である。
ただ、それだけの話だ。
黒猫はそう思うと、なにやら晴れやかな気持ちになった。
そして、最後の出社日を向かえて、黒猫はようやくにして思い出す
ことが出来た。犬鷲が一体、誰に似ているのかを。
それは、ある有名なSF映画に出てくるアンドロイドだ。抑揚の無い
無機質な声と、"真意"がどこにあるのかさっぱり判らない言動。
そのアンドロイドは物語の最後には首を吹き飛ばされるが、それでも、
やはり抑揚の無い声で主人公に延々と語り続ける。犬鷲は、その
アンドロイドに声も、容姿も、喋る内容の質もよく似ていた。
「貴方が誰に似ているのか、今日やっと思い出しましたよ。」
黒猫は、空いている席のパソコンを所在なく操る犬鷲の後姿を
見ながら、心の中で呟いた。それは犬鷲への別れの言葉でもあった。
定時が来て、黒猫達はオフィスを後にした。 犬鷲が手配した
居酒屋に行ってみると、すでに貂坂と何人かの社員が先に来ていた。
黒猫は貂とは久しぶりだった。貂坂は千葉方面の会社に出向に出され
ていた。
黒猫が主賓の送別会のせいか、話の内容は仕事のことではなく
黒猫や貂坂の世代が夢中になって観た80年代の映画の話しで終始
盛り上がった。犬鷲も黒猫が思ったほどには年は自分達と離れていなかっ
たことが最後の日に判った。30代半ばくらいなのだろうか。
二次会も終わり、犬鷲と貂坂と数名の社員が黒猫の帰る方向の
駅の入り口まで見送ってくれた。黒猫は全員と握手をした。情に厚い
貂坂は涙ぐんでいた。
「犬鷲さん、お世話になりました。」
黒猫は礼を言って頭を下げた。
「こちらこそ。君ならどこでもやっていけるよ。」
犬鷲はいつもの笑顔で応えた。
「貂坂さん、"萌え"ていますか?」
黒猫は冗談っぽく、いつか語りあった"萌え"を引き合いに出していった。
「萌えていますよ。黒猫さんは?」
貂坂は涙を拭きながら大きく頷いて、返した。
「萌えています。」
黒猫は言葉を返して、もう一度握手をした。
「皆さん、お元気で。」
黒猫は手を振る皆を振り返りながら、階段を降りていった。暗がりで
影が手を振り続けていた。
切符を買い、改札を通る時に黒猫は思い出した。数日前に後で
読むようにと速目から渡された手紙のことを。
鞄から取り出して、開いてみると、短い言葉が綴られていた。
黒猫は、クスと笑って電車に乗り込んだ。
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