漫画

2016年9月17日 (土)

漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」

漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」 

  

 気が付いてみれば、上京してからえらい年月が経つが、東京に移住してから
「週間少年ジャンプ」を買ったのは記憶する限りでは二回である。

 一回目は、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の最終回前の先週号である。

 二回目は、最終回の今週号だ。

 因みに、最終回前号は"今世紀に入って初めて買うジャンプ"でもあった。
さらに、もしかしたら、"成人してから初めて買うジャンプ"だったとも思われる。
レジカウンターに持っていく時は何だか緊張してしまった。

 だもんで、両さんや、中川や麗子が変わっているか、いないかということは最早
超越している。

 最終回"前"号の回は、十年以上ぶりに読む者からすると、両さんの日常については
余りにも変化し過ぎていて

「夢オチなのか?多分そうじゃないのだろうな」

くらいについていけないけれどそれはそれ。相変わらずの"拘りグッズ系(時計)"の
話であったのは、「最終回は大暴れするぞ」という伏線と、作者の「こち亀」への愛着を
示す"真の最終回"ではなかったかと思う。

 自分が「こち亀」を一番読んでいたのは単行本で言うと30巻前後ではなかったかと
思う。個人的にはこの辺りでの書き込まれたキャラクターや背景の絵の雰囲気が
自分にとっての「こち亀」である。
  
 白バイ勤務の本田のバイクの後ろに両津が跨り、あちこち走りながら珍妙な店や
人に遭遇していくというパターンが好きであり、自分にとっての黄金律であった。
 
 また、閑話休題として差し込まれる細部まで描かれたバイクと夕焼けとかの組み合わ
せのカットが大好きだった。

 「Mr.クリス」とか、たまに発表される書下ろし短編を見ると作者の秋元治は書きたい
ネタを明確に持っていることがよく判り、「こち亀」がいつ連載終了になっても困らない
のだろうなと思ったものだ。

 狙い通り?伝説となった「ニセ最終回」の頃(20年前!)はまだジャンプをリアルタイムで
読んでいて、まんまと騙されるという楽しみを味わうことが出来た。

 そして、自分のとってはその「ニセ最終回」の頃で「こち亀」からもジャンプからも
実質的に卒業したのだと思う。

 今回の『最終回』にあたっては、この一週間、何となく内容を予想しつつ過ごした。

 自分の予想した終わり方は、両さんがいつも通り、派出所のいつもの"あの席"に
座っていると、名物キャラクター達が最終回を知って続々と大慌てで駆け付けるが
両さんは喜々としてあくまでも普段通りに振舞って最終ページで「みなさん、さようなら。」
で大団円で終わる。。というベタな展開であるが、案外、あり得る」と踏んでいた

 実際に迎えた最終回は、「こち亀」らしく、秋元治の陽気な性格を現した"らしい"
終わり方だったと思う

 この終わり方について余りにあっけないと思う人も多いと思うが
「こちら葛飾区亀有公園前派出所」
という漫画は構成が一話完結形式であり、恐らく作者の構想としては、
両津勘吉
というキャラクターも大原部長等と同じくその他大勢の中の一人に過ぎないということ
だったのではないだろうか。

 だからこそ、何でもいれられる容量の充分にあるHDと「こち亀」というシンプルな
OSは40年間、故障もなく、バージョンアップを続け、堅実に稼働し続けたのだと思う。

 終わりは幾つかのタスクを終了させて(一時的に)電源オフするだけである。

 次ページからの"予告満載"の最終回は

「まさか、また振りか?」

 と一瞬思わせられたが一話完結形式の「こち亀」にそもそも終わりはない。

 秋元治という漫画家が週間連載という重荷から解き放たれた悦びの叫びに溢れた
次作の予告は製作者も慮る真の読者と同業者をハッピーにする良い企画だったと思う。

 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」を愉しみ、友と笑いと蘊蓄を共有し、新しい
出会いにおいてはお互いを知る恰好のネタとなり、そして、秋元治という優れた
漫画家が同じ時代を共有してくれることの安心感と頼もしさがいつもあったように思う。

 そんな「こち亀」の連載が遂に終了した。

 連載終了の日に立ち会えたことを素直に喜びたい。

 秋元治さん、関係者の皆さん、長期に渡る連載お疲れ様でした。
ゆっくり休んでください。そして、健康を維持されながら納得のいく素晴らしい
作品がこれからも発表されることを願います。

 新作を見つけたら読まさせて頂きます。 

 お疲れ様でした!!

 「こちら葛飾区亀有公園前派出所」よ、秋元治よ、永遠なれ!!!

 

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「こちら葛飾区亀有公園前派出所」 秋元治
全200巻 集英社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2014年3月16日 (日)

漫画「地上の記憶」

漫画「地上の記憶」

 
 

 一生、手放さないであろう、または一生繰り返し読み続けるであろうと思い
決めている。そんな本や漫画というものは今時誰しもきっとあるだろうが、
自分にとっての漫画におけるそんな一冊が

白山宣之著「地上の記憶 」

である。

 白山 宣之(しらやま のぶゆき) 1952年 長崎県雲仙市吾妻町出身。
2012年で癌により他界。享年59才。余りの寡作ぶりと、本書に寄せられた氏を
愛して止まなかった多方面の人々の賞賛と哀悼は、氏が世間に決して毒されず
媚びなかったと思われる生き方を貫き、人生そのものを危うくしたであろうことは
想像に難くない。そして、『その全て』がどの作品のどのコマにも結実していることが
容易に見て取れる。こんな作家は極めて稀有であり絶後ではなかろうか。

 掲載作品の全てが珠玉と呼ぶに相応しく、その初出を見ると、

陽子のいる風景 平成3年9月

ちひろ 平成4年7月

ピクニック 平成4年7月

大力伝 平成15年3月

Tropico - 南海冒険譚- 昭和54年8月

どの作品のどのコマを選んでも、昭和後期から、平成の世が十数年過ぎても、
ゆるゆると一日中酒を飲み飽きることを知らない「大力伝」の"準主役"玄蕃の
如くに白山氏の姿勢は寸毫も変わることはないことが判る。その事がいかに
奇跡的であることかは作品そのものが完全に証明している。

 買った当初は、「陽子のいる風景」、「ちひろ」にまず打ちのめされ、幾度と
なく読み返し、戦国時代末期を舞台にした「ピクニック」、「大力伝」の視点の
ユニークさと描写の細部の妙を楽しんでいたが、最近では南の島を舞台にした
日本人4人と悪漢達との胸のすく闘いを描いた前後編「Tropico」のこちらも
コマの細部に宿っている温かいユーモアと今では完全にタブー化してしまって
久しい「時代のひずみ」を"美し過ぎる"ヒロイン洋子と仲間達の屈託の無い
活躍にただ溜息を漏らす。

 有望な若手の台頭を望み、戦後の日本文化の一翼を今までとこれからも担い
続ける『漫画』を衰退させたくなかったら、話は実に簡単である。速やかに
白山宣之氏の全作品を出版し、国内外に広く長く流通させることではなか
ろうか。

 白山さん、貴方の人生はともすれば短く、作品の数そのものは決して多くは
なかったかもしれない。しかし、貴方の作品が人々に与える影響は
とても長く、意義深いもの
となるでしょう。

 
 有難うございました。
 
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「地上の記憶 」 白山宣之
双葉社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2013年6月 2日 (日)

漫画「ゼノンの立つ日」

漫画「ゼノンの立つ日」

 
  

"我が名はゼノン!"
 
"悪魔王ゼノン!"
 
"人間に告ぐ"
 
"人間に告ぐ"
 
"我等は悪魔 人間の忌み嫌う伝説上の怪物なり"
 
"今より5分後"
 
"第一回の攻撃を開始する"

 

 40P近いページ数は読みきり漫画としては中規模の作品であるが
展開のダイナミズムの衝撃と満足度は優に映画数本分かそれ以上に
匹敵する

 黒田硫黄の諸作品にも見られるエッセンスもテンコ盛り。
構図の大胆さと展開の緩急の勢いの心地よさ
台詞の妙
主人公は中途半端に身勝手で独善的中年男
家族の不和、相互理解の不在
女性の眼差しと仕草と"間"の描写のエロス
悉く判断ミスを続ける総体としての「人間の集団(大人社会)」
登場人物に平等に遅いかかる不幸(どちらかというと狡猾な
者はさっさと逃げ回るので正直者がより不幸になる)

 主人公の安倉は悪魔による攻撃の大カタストロフィもさして
気にした様子もなく交際中の若い女性奈美と何年も音信不通に
なっていた子供達を連れて友人の雷沼雷蔵を頼り北海道に疎開しよう
とする。単なる交通の手段として止む無く奈美の弟も同伴し奇妙な
ロードームービーが展開される。

 逃避行の最中、国家権力は容赦なく民衆にあたり、弱者はさらに
容赦なく見捨てられ見殺しにされていく。

 雷沼雷蔵はテレビのインタビューで民衆をミスディレクションしていく。
情報が刻一刻と流れても主人公達の孤立感はより増していくリアル。

 双子のしげおと克也は大人達とは全くリンクしない世界を共有して
いることに安倉は気付かない。家族を危険に近づけていることも。

 雷沼の研究所に一向が到着しても何も解決しない。悪魔出現により
悪化し続ける状況の前に主人公達は何ら身を守ることはできない。 

 悪魔が人間達を混乱させているのではなく、何も理解できず、
他者とのコミュニケーションを図れないか、または図ろうとしない
人間達自身の手によってツールは円滑に利用されることは決してなく、
自ら弱肉強食の地獄絵図的世界を出現させていく。雷沼の指摘そのままに。

 全てが臨界を向えた時、悪魔と人間の両者を介在する者
"悪魔人間"(デビル マン)は遂にその姿を見せる

 安倉、奈美、しげおと克也、それぞれの一瞬一瞬の目と表情の
動きのリアル、"観客"の見たくない物を敢えて見せ、観客に見せたい
観客が見たい"グロ映像"と"カタストロフィ映像"もまた小気味良い
タイミングで繰り出し存分に見せる巨匠黒田硫黄"監督"

 それにしても、黒田の描く主要登場人物は、ヒロインはなぜ男を
どこか蔑みいつも独立的でいながら母性も感じさせなお魅力的
なのだろう。中年男はなぜかくも残酷なまでにやや病的に排他的で
しかも憎めないのだろう。子供達は痛ましいまでに聡明で大人達
を冷めて眺めているのだろう。

 動き続けることが宿命のアニメには到底出来ず、実写はもとより
不可能。「大日本天狗党絵詞」、「あたらしい朝」などと同様に
『漫画』にしか出来ない、『黒田硫黄』の手、ペン先からしか生まれ
得ない創造に、『黒田硫黄』というジャンルとメディアにただひたすらに酔う。

 "才能"が"作品"にきちんと昇華されている奇蹟と快感に、乾杯

 
 
 

雷沼君!! デビルマンて知ってるか? 

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「ゼノンの立つ日」 黒田硫黄
ネオデビルマン新装版 下
永井豪
岩井均
田島昭宇
高寺彰彦
夢野一子
神崎将臣
黒田硫黄
風忍

講談社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2010年1月30日 (土)

漫画「ちんまん」(後編)

漫画(3) 「ちんまん ~中村珍短編集~」(後編)

短編集の前編ではなくて、
読んだ後に少し書いておこうと思う意味での後編。

中村珍という漫画家(♀)については前半で少しの述べているので
そちらをどうぞ。

概ね予想通りの短編集だった。
中村珍という一個の人間に興味を持ちその壮絶なる漫画道に
エールを贈りたいという邪道とも言える買い方であるので
当然であるが中身そのものは特にどうということもなく。
ただ中村珍という女性はブログを見る限り相当に"女"である
つまり情念というものはが感じられ、この短編集からは
確かに期待した通り情念は感じられた。

情念=女であり、したがって女性の描き方はデッサンがどうこう
いう前に"上手い"と思う。この人が本気でエロ漫画描いたら
相当にエロイだろうな。

漫画というものは"ペンとインクと紙さえあれば描ける"ものでは
『断じて無い』。漫画というものは""が物を言う世界、つまり
いかに優秀なスタッフを馬鹿にならない資金を投じて雇い彼らを
回転させ紙面を埋めていくかで悪くもなり良くもなる。
という
誰しもがあまり大きな声では言わないがごく常識であり、誰も
大きな声で言わないがゆえの卓見である。

金が物を言うことをコマの実例を上げて繰り返しブログで述べている
作者の作品であるので、必然的に物語の接合部分の捨てコマ
(場面移動や抑揚のバランスのために置かれる本質的ではないカット)
に自ずと目がいって、それほど上手くもないスタッフが具体的な
指示もなく(?)描いたであろう何気ない夜景のカットや全くどうでもいい
街の風景のカットを面白く見た。

それらの「これくらい俺でも描けんじゃね?(勿論描けない)」的な
たったの一コマでも、そのコマを10秒でも眺める読者が果たして
この世界に何人いるのか心もとない絵でも一人の恐らくは漫画のタマゴ
が思案にくれながら下書きをしてペン入れをして作者のチェックを
受けて場合によっては書き直しをして(さらに場合によっては作者
自らが全くゼロから描き直して)ようやく世の読者の目の前に送られて
いくのだ。

短編集を読んでいて思ったのは中村珍は結果論的に漫画家という
職業に就いた人間なのだろうということで絵を描くことそのものは失礼だが
あまり上手くない。しかし彼女の放つ"情念"が作品を作品たらしめて
いるわけでその情念こそが最終的には決定的に分つものであろうと
思う。

彼女には彼女の持つ技を最大限引き出す編集者なり助言者なりが
必要であることも読んでいて強く感じた。どの作品にも迷走が感じられる。
勿論、その迷走ぶりも初期短編集というものの魅力といえば魅力であるのだが。

とにかく今後是非とも大化けしてほしいものだ。


中村珍女子の運営サイト"珍村"
http://ching.tv/

漫画棚通信さん(ブログ版)のサイト
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/

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「ちんまん ~中村珍短編集」
中村珍(なかむらちん)著
日本文芸社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2010年1月13日 (水)

漫画「ちんまん」(前編)

漫画(2) 「ちんまん ~中村珍短編集~」(前編)

短編集の前編ではなくて、
読む前に少し書いておこうと思う意味での前編。

中村珍という漫画家(♀)はよくいくサイト漫棚通信(ブログ版)
の記事で知った。
某誌で掲載されていた中村の漫画「羣青」(ぐんじょう)の
打ち切りまでの経緯を中村珍自身がブログで赤裸々に
暴露しているのが、まあ率直に言って大変面白い。

問題の根幹にあるのは長年かけて完璧なまでに
構築された読者・漫画家(作者)・編集者(出版社)の
三位一体の関係に編集者側が胡坐をかき、
読者の眼前に"面白い漫画"を差し出すという産婆の
役に徹することを忘れ漫画家を単なる金の産む道具
(かなり莫大な大金を産む鵞鳥)としてしか見なくなった
ことがあるように思う。

原稿料はスタッフを雇う経費に完全に消え(それでも足りず)
打ち合わせと称した編集者の経費落しを前提とした豪遊の
褄にされ交通費も支給されないという
漫画を描けば描くだけ赤字になるという見事なスパイラルを
壮絶に生き抜いた中村珍という人に敬意を表し、かつ
いかに漫画家を続けて洒落ないなんない借金がこさえられたのか
という詳細な報告のブログが単に面白かったので
貢献したい意味もこめて短編集を買ってみた。

印税がたとえ数パーセントであっても私の買った一冊から
巡り巡って彼女に幾らかでも入り、借金の返済や漫画家継続の
お役に立てば幸いである。

もう一つの大きな理由(漫画を買う本来の理由)は彼女自身の
キャラクターが相当に面白そうな方なので漫画もきっと光り輝く
ものがあるに違いないという理由である。

「ちんまん」の表紙からいってかなり"ヤバイもの"が描かれて
いそうで期待できる。

想像されるのはお年頃の女子を主人公にした恐らくは悲惨な
体験をベースにしたかなりのキワモノ的な物語であり、そこには
ギャグと呼ぶには多くの人が躊躇するであろうブラックな何かが
散りばめられていることであろうということ。そして、きっと何やら
特異な人生を送られてきた雰囲気が濃厚に漂う作者の人生や
思考も当然のことであるが投影されていることだろう。

その当然のことが出来ていないことが普通であることが
今の日本の漫画貧国への確実な傾斜があるわけで、
その大きな原因の一つを彼女は自身の生き様をもってして
見せてくれたと私は思う。

とウダウダと書いてみたが、さてこれから読んでまた感想の
ようなものを近日中に描きたいと思う。-->感想のようなもの

と書いてみて松永豊和の場合何から何まで同じパターンである
ことを思い出した。繰り返す自分という歴史。。


中村珍の運営サイト"珍村"
http://ching.tv/

漫画棚通信(ブログ版)のサイト
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/

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「ちんまん ~中村珍短編集」
中村珍(なかむらちん)著
日本文芸社

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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2008年6月22日 (日)

漫画「龍宮殿」

漫画(1)「龍宮殿」

いつも覗いて楽しんでいるサイトの一つである
漫棚通信さん(ブログ版)の記事で
松永豊和氏という漫画家がいることを知り
彼の壮絶なまでの"マンガ道"を自身が小説家した
「邪宗マンガ道」を読んだ。
(web小説なので氏のサイトに行けば読めます。下を参照のこと)

氏は人間関係も作品もナアナアで受け流して済ますことがなかなか出来ない。
そして、どうしても遅筆で且つ編集者のささいな一言や仕草、
特に自分の作品を踏み台のようにして成り上がろうとすることには
寸毫も我慢がならず口にも態度にも出す。
そのことが自分の首を絞めることだと判り切っていながら。。

わかっちゃいるけど止められないところが
ものごっつー共感。
作品としても一人の男の生き様としても楽しんで読んだ。

これを言ったら、これをやったら自分は御仕舞いだ。
しかし、いつものように「血」がドクドクと体内に流れるのを感じ、
最早どうにも止めることは出来ない。

相手の最もダメージを受けるでろう言葉を厳選し。。
撃つべし!撃つべし、撃つべし!!

相手の撃沈したその表情を確認し、同時にそれは
今後恐るべき陰湿で周到な報復を受けることを意味しまた
相手との信頼関係が崩壊したことを意味し呆然とする。

自分は、、終わった。

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小説を読了後、彼の作品を読もうとネットで探したが
最も読みたいと思った「バクネヤング」は入手できず
「龍宮殿」を買って読んだ。

素晴らしい。

「浦島太郎」をベースに見事に舞台を現代社会に
構築したその壮大なストーリーとファンタジー溢れる描画
にまず拍手。

そして小説「邪宗マンガ道」同様に人間というエゴの塊の生き物の
「業」がしだいに緻密なストーリーと共に描かれていきその業を
正面から受け止めようとする主人公の兄弟二人に涙、涙、涙。

コマの背景の絵は敢えて書き込まなかったのかそれとも
小説に書かれているような常に何事かマイナス要因を抱えた
作業のなかでの苦しみながらの執筆の結果なのかとてもシンプルだけど

テーマはとても深く・重いのでそれほど気にはならない。

エロスと暴力がきちんと描けていてしかも
善悪を超えた哀しい展開はとてつもなく胸に迫る。

これアニメ化出来るのじゃなかろうか(勿論映画化の話しでR指定)
そしてメガヒットを飛ばせるんじゃなかろうか。

一つ不満があるとすれば"博"を倒す為に博と同じ罪を犯し
変態する"兄"の姿には正直不満だ。
博同様に醜悪な容でなくてはならない。
兄の変態後の姿には作者松永は不本意では
ないのかと推測するがどうだろう。

兄のある種ヒロイックな姿には重すぎる本作のテーマを
減退させる作用が確実に働く。これは編集者の意向
がかなり強く働いているのではないだろうか。

それともグロテスクな描写が随所にある本作への読者の反響
に配慮してのものだろうか。

この点も踏まえて作者自身のこの作品全体の感想を是非
聞いてみたいものだ。

すでに熱狂的な支持がある作家のようだが、
今後評価はますます上がることだろう。

ここ数年、氏は20代~30代の壮絶な自身のマンガ道で
受けた傷をじっとして癒されてきて何かをまた始めようと
しているようだ。

そしてどうやら氏はもうじき東京を去るようだ。
不愉快なこともそうでないことも数限りなく体験されたようだが
氏のいなくなった街で氏とその作品を今後支持し続けよう。

新作と出会えるまでこの作品をまだまだ
繰り返して楽しんでいよう。
「バクネヤング」も何としても入手して読もう。

松永豊和氏のサイト
http://book.geocities.jp/monene39/index.html

漫画棚通信さん(ブログ版)のサイト
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/

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「龍宮殿」1~3巻
松永豊和(まつながとよかず)著
小学館

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