人々

2011年7月 3日 (日)

ある人間の履歴(三)

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・ 明治33年元旦(1900年1月1日)、岐阜県加茂郡八百津町
(やおつちょう)に生まれる。名前の「千畝」(ちうね)は父の赴任地
だった実際にある地名からとられたとする説が一般的である模様。
千畝には千枚田、棚田という意味があり八百津町の棚田は
「日本の棚田100選」に選ばれている。

  

・ 明治45年(1912年)、古渡尋常小学校を全甲(オール5)で卒業する。(12歳)

旧制愛知県立第五中学に作家の江戸川乱歩と入れ違いに入学する。
父は医者になることを望んでいたが、本人は医者になることを拒み、
京城医学専門学校(現・ソウル大学校医科大学)での試験では故意に
白紙答案を出した。

  

・ 大正7年(1918年)4月、早稲田大学高等師範部英語科予科に入学。(18歳)

英語の教師になるつもりだった。授業中はほとんどノートをとらずに
内容を全て暗記していた。父の意志に反した進学であったため、仕送りが無く
やがて困窮した千畝は図書館で偶然に外務省留学生試験の情報を掴み、
図書館に篭って猛勉強を始める。

 

・ 大正8年(1919年)10月、日露協会学校(後のハルピン学院)に入学。(19歳)

11月に早稲田大学を中退する。官費留学生としてハルピンでロシア語を学ぶ。
ロシア語の選択は千畝の意志ではなく説得されてのものだった。寸暇を
惜しんでは辞書の単語を覚えては破って捨てるという特訓を自らに課した。

・ 大正9年(1920年)12月、大正11年3月まで陸軍に入営する。(20歳)

・ 大正12年(1923年)3月、日露協会学校特修科修了。(23歳)

すでにロシア語は堪能になっており高い評価を受ける。

・ 大正13年(1924年)、外務省書記生として採用される。(24歳)

・ 大正15年(1926年)、『ソヴィエト聯邦國民経済大観』を書く。(26歳)

ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。

・ 昭和7年(1932年)3月、満州国建国が宣言される。

・ 昭和7年(1932年)、満州国外交部事務官となる。(32歳)

・ 昭和8年(1933年)、政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との

北満州鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当する。(32歳)
ソ連側の要求額6億2千5百万円強を1億4千万円まで値下げさせ外交的に
大きな勝利を得る。ソ連側の要求した額は当時の日本の国家予算の
1割強という巨額なものであった。

・ 昭和10年(1935年)、満州国外交部を退官する。(35歳)

大正13年に白系ロシア人のクラウディア・セミョーノヴナ・アポロノワと
結婚していたが、同年に離婚。またこの満州滞在中に杉原は正教会の
洗礼を受けている。洗礼名は「パヴロフ・セルゲイヴィッチ」(パウロ)であった。
キリスト教とは早稲田学生時代にすでに出会っていた。

ハルピン滞在中に関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるように
強要されたが拒絶している。橋本欣五郎は極東軍事裁判でA級戦犯として
追訴され終身刑となった人物(後に仮釈放)。「驕慢、無責任、出世主義、
一匹狼の年若い職業軍人の充満する満州国への出向三年の宮仕えが、
ホトホト厭になっ」ての退官であった。

リットン調査団への反駁文をフランス語で起草したこともあったが、
この頃より日本の軍国主義を冷ややかな目で見るようになる。クラウディア
との離婚の決定的な理由にはスパイへの拒否に対して関東軍が
妻のクラウディアがソ連側のスパイであることを流布したことであった。

離婚の際に財産をクラウディアとその一族に渡した杉原は無一文となり
帰国後に菊池幸子と結婚し池袋に暮らすが赤貧の生活となる。

・ 昭和12年(1937年)、フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任する。(37歳)

・ 昭和13年(1938年)、山路章・ウィーン総領事がナチス・ドイツの迫害により
極東に向かう難民が増えていることに懸念を示し、ユダヤ難民が日本に向かった
場合の方針を照会する請訓電報が送られ近衛外務大臣より極秘の訓令が
回電される。

・ 昭和14年(1939年)、リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。(39歳)

念願だった在モスクワ大使館に赴任する予定だったがロシア側に「ペルソナ・ノン・
グラータ」を発動して拒否される。理由は反革命的な白系ロシア人と親交がある
と判断されたことによるとされている。日本人が珍しいカウナスでは杉原の赴任に
よりちょっとした日本ブームとなる。

"ペルソナ・ノン・グラータ"とは外交用語の一つで「好ましからざる人物」の意味。

語学能力が極めて高く且つ諜報能力もあった杉原は日本の外交関係者の
間で獲り合いとなる。

ドイツとソ連の中間に位置するリトアニアのカウナスにが赴任した杉原に
参謀本部はドイツ軍がソ連を攻撃する意志があるかどうかの情報得る事を
期待し報告を要請した。

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・ 1939年8月23日 独ソ不可侵条約を結ぶ。(アドルフ・ヒトラー50歳)
      9月  1日 ポーランド侵攻を開始。
      9月  3日 英・仏がドイツに宣戦布告する。第二次世界大戦の開始。

ナチス・ドイツとソ連が締結した独ソ不可侵条約に盛り込まれていた秘密議定書
によりポーランドは同二国に分割されることになった。

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・昭和15年(1940年)7月、ドイツ占領下となったポーランドから多くのユダヤ人が
リトアニアに逃亡してくる。リトアニアは当時ソ連領で大使館の閉鎖をソ連側は
各国に通達していた。ユダヤ人達は業務を続けていた日本大使館に(通過)ビザを
求めて殺到した。

外務本省から発給条件厳守の指示があったが、杉原は発給条件を満たさない
者にも通過査証を発給した。発給作業の激務の余り、腕に激痛が走り、多量の
手書き作業に万年筆は折れた。亡命ポーランド政府の将校の一人は作業の一部を
ゴム印にしてはどうかと提案した。

・昭和15年(1940年)9月5日、ベルリンへ向かう(40歳)

やがて規定の手数料の徴収すら忘れ、ベルリンに移動することを余儀無くされた
車上の人となってもビザを書き続けた。その枚数は記録されている物だけでも2,139枚
にのぼった。一家族が一枚のビザで十分であったため、杉原は数千人の難民の
出国を助けたことになる。

「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」

杉原は頭を下げた。杉原達の乗る列車の姿が見えなくなるまで泣きながら
走っている人々の姿がみられたという。尚、カウナスの日本領事館には
ドイツのスパイ、ポーランドの地下組織抵抗組織の諜報員が入り込み
複雑怪奇な情報戦を展開し、千畝の夫人もスパイの存在には気付いて
僅かの気の緩みも許されなかった。

・昭和16年(1941年)、東プロイセンの在ケーニヒスベルク総領事館に赴任する。(41歳)
                  5月9日 ポーランドの諜報機関の協力の下で独ソ戦の情報を掴み、本国に打電する。

「、、、東プロイセンには旧ポーランド領に劣らぬ大兵力が結集しているので、
独ソ関係は6月には決定的局面を迎えるでしょう。」

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・ 1941年6月22日 ドイツがソ連に侵攻を開始する(バルバロッサ作戦)。
(アドルフ・ヒトラー52歳)

ドイツとソ連に挟まれた東欧のユダヤ人の悲劇が深刻化する。
逃げ遅れたユダヤ人はアインザッツグルッペンと呼ばれる「移動殺戮部隊」の
手にかかったり、ナチスやソ連の強制収容所に送られた。

・1941年年8月7日 ドイツ国家保安本部のラインハルト・ハイドリヒは
「ドイツ帝国における日本人スパイについて」の報告書を提出し、杉原を
名指しで非難する。

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1946年までヨーロッパ各地を転々とし、各職を歴任する。

・昭和22年(1947年)、第二次大戦終結後に一年間の収容所生活を送り帰国。(47歳)
                 6月13日 岡崎勝男・外務次官から退職通告書を送付される。
                 6月27日 外務省を依願退職する。

居を据えた神奈川県藤沢市・鵠沼(げぬま)は杉原が尊敬した広田弘毅が戦中に
住んだ地だった。広田弘毅はこの翌年、文官として唯一のA級戦犯として絞首刑に
される。退職の理由はカウナスにおけるビザ発給の件が原因であったとされる。

・昭和44年(1968年)夏、「杉原ビザ」受給者の一人ニシェリと再会する。(68歳)

ニシェリは1940年の夏に杉原がカウナスから去るのを駅で見送った一人であった。
杉原は難民達に「センポ・スギハラ」という発音し易いように名前を教えていたが
外務省に照会しても「該当者無し」という返事であった。杉原自身が難民たちの
安否を気遣ってイスラエル大使館に足を運んで住所を教えていたのでニシェリと
杉原は再会することが出来た。

・昭和50年(1975年)、国際交易モスクワ支店代表を退職して日本に帰国する。(75歳)

東京に在住していドイツ人ジャーナリストのゲルハルト・ダンプマンは1980年、
杉原に対する外務省の冷淡さや国内での評価の低さに抗議した。表彰されないこと、
テレビや映画で取り上げられないこと、表彰されないこと、学校で取り上げられない
ことに。

・昭和60年(1985年)1月18日、イスラエル政府より「ヤド・バシェム賞」を受賞する。(85歳)

"ヤド・バシェム"とは、「諸国民の中の正義の人」(英:Righteous among the Nations)の
意味で、自らの命の危険を顧みずにユダヤ人を救った非ユダヤ人に与えられる称号。
千畝は心臓病と高齢により渡航できず、授賞式には四男の伸生(のぶき)が出席した。

・昭和61年(1986年)7月31日、心臓病により死去する。享年86歳。

・平成12年(2000年)10月10日、日本政府により公式に名誉回復が行われる。

・平成23年(2011年)3月21日、イスラエルの有力紙『エルサレム・ポスト』は
在京のユダヤ人達が募金の口座を開いたと報じた。その理由には「"チウネ・スギハラ"が
訓令に反してビザを発給し、6000人ものユダヤ人を救ったことに注意を喚起して」
とあった。

米国のユダヤ人組織オーソドックス・ユニオンは東日本大震災による被災者に
対する義援金を募るにあたり、公式声明を発表した。

「、、、今こそ、身職を賭して通過ビザを発給し、リトアニアから6,000人もの
ユダヤ人を救ってくれた杉原夫妻の恩義に報いる時である」


※1 記述内容は基本的にWikipediaに寄っている。
※2 年齢については月日は考慮せず表記している。
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2012年の今もって"杉原千畝を演じた俳優"や、千畝を主人公にした
"映画作品"が幾つかポンポンと出てこないどころか、絶無であることは
日本人としては寂しい限りで『社会』の表層であり鏡であり、油のようなもの
である娯楽である映画やテレビドラマについての今後の大きな課題の
一つである。しかし、氏の人生を安易にトリミングしてしまう位ならばドラマ化なぞ
しない方が良い気もする。ジャーナリストのゲルハルト・ダンプマンの指摘は
一見、最もであるが、戦争の時代を「現在」と切りはなし完全に過去の遺物とした
上での発言であるという見方も出来る。杉原千畝はカウナス退去後もその
キャリアと能力を駆使して精力的に国際情勢を分析・調査して本国政府に
有益な情報を送り続けた。氏とその周辺をドラマ化するにはどうしてもビザを
発給する所までで物語を終わらせて一気に終戦後まで飛ばす必要がある
だろう。そんな、安直な歴史の鎖を断ってしまった嘘物語の主人公にされる
のは千畝も本意ではないのではなかろうか。杉原千畝のダイナミックで、
一個人として誠意を併せ持って出来るギリギリの判断の連続であった生涯を
"コンテンツ"にしてしまえないのは、「まあまあ、どうもどうも」の寝技で
ひたすら事無きを得てきた日本の欺瞞であることは間違いないが、
"外国人"には恐らく理解できない「一欠けらの良心」であるとも言える。
もしも、千畝の生涯が映画化されるとしたら篠田正浩の手による「スパイ・ゾルゲ」
(2003)のような、視点が哀しいまでに完全に分裂してしまっている手法を
取らざる得ないであろう。

外務省を追われた点についても、そのお役所体質を糾弾するのは、実に
容易いが杉原の行動を公式に認めてしまえば、組織に従わないことを是認
してしまうということになり、良くも悪くも縦割り社会で時を越えてきた日本という
単純に見えて実に複雑な"村社会"においてはいた仕方なしというところか。
真の問題は杉原千畝をヒーローとして扱えない自分の国を糾弾しておきながら、
事の真贋の調査・分析を平気で投げ打って、自分の保身に現を抜かしている
ことに微塵も気付かないその事自体ではなかろうか。杉原千畝は良心に従い、
法と組織の壁に限界まで挑んで多くの人々の命を救った。後輩たる我々は、
法を悪用して権力の座に居座り、確信犯的にシステムを麻痺させて国力を
落そうとしている多くの輩達を安穏として、跋扈させて退場させることが出来ずに
有史以来最大の危機を迎えてしまっている。世界中の人々の浄銭すら
今もって被災者の人々に届かない。そのことを糾弾することも是正することも
出来ない。我々は千畝の大きな足跡の中にすっぽりと入ってしまって方向性を
決められずにそのことに焦ろうともしない。

偉大な先人達の足跡を賞賛し、「同じ側の人間である」と宣言するのは実に
容易で実に気持ちのよいものであろう。最大の問題は自分自身の一個人の
立ち位置とその位置の理由と今後の指針を明確に出来ないことでは
なかろうか。

  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  
  

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2011年2月20日 (日)

ある人間の履歴(二)

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・ 慶応3年12月24日(1868年1月18日)、関宿(せきやど)藩士の家の長男として生まれる。

・ 明治31年(1898年)、海軍大学校を卒業する。(30歳)

・ 明治36年(1903年)、旧薩摩藩出身以外の者への露骨な差別に嫌気が差し、
   軍を辞めようとするが父の手紙を読んで辞職を思い止まる。

・ 日露戦争を駆逐隊司令として戦う。搭乗した駆逐隊において戦艦3隻、巡洋艦2隻を
  撃沈し日本海海戦の勝利に貢献する。(36歳)

・ 大正12年(1923年)、海軍大将となる。(55歳)

・ 大正13年(1924年)、連合艦隊司令長官となる。(56歳)

・ 昭和4年(1929年)、侍従長に就任する。(61歳)
  本人は侍従の仕事は向いていないと考えていたが、昭和天皇と貞明皇后に
 懇願されての就任であった。

・ 昭和11年(1936年)、二・二六事件の際に襲撃を受け一時危篤となる。(68歳)

・ 昭和19年(1944年)、枢密院議長となる。(76歳)

・ 昭和20年(1945年)4月、第42代内閣総理大臣となる。(77歳)
  非国会議員で且つ江戸時代に生まれた人間として内閣総理大臣に就任した最後の
  人物となる。また天皇による"命令"ではなく「頼む」と言われて総理になった唯一の
  人物とされる。天皇の母、皇太后節子(貞明皇后)からは「陛下の親代わりになって」と
 言われたとも。

・ 昭和20年(1945年)7月、ポツダム宣言に対して「政府は黙殺」と大きく報道される。
  "黙殺"は同盟通信社により「ignore it entirely」と訳され、ロイターとAP通信では
 「reject」と翻訳(誤訳)され報道される。 

・ 政府はソ連に英米との講和の仲介を働きかける。
  日ソ中立条約は1946年春まで有効であった。

・ 昭和20年(1945年)8月6日、広島に原子爆弾が投下される。

・ 昭和20年(1945年)8月9日、長崎に原子爆弾が投下される。
   ソ連が前日に日ソ中立条約破棄を宣言し対日参戦する。

・ 昭和20年(1945年)8月10日、御前会議にてポツダム宣言即時受託に天皇は賛意を
 示す。

・ 昭和20年(1945年)8月14日、ポツダム宣言に関する見解について外務省と軍部で
 分かれたため御前会議を再び召集し天皇に聖断を懇願し、ポツダム宣言の受託が
 決定する。

・ 昭和20年(1945年)8月15日正午、天皇本人による終戦の詔勅が放送される。
 同日早朝、陸軍大尉・佐々木武雄を中心とする国粋主義者達に総理官邸及び
 小石川の私邸を襲撃され、警官に救出される。
 同日、陸軍大臣・阿南惟幾(あなみ これちか)が自刀する。

・ 昭和23年(1948年)、死去。享年81。
  生涯を通しての信条は「軍人は政治に関わるべきではない」だった。

 
 

※1 記述内容は基本的にWikipediaに寄っている。
※2 年齢については月日は考慮せず表記している。
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太平洋戦争における、または昭和の前期から中期までの日本について
考えるときにこの人の存在がいつも大きく感じる。もし二・二六事件で襲撃された
時に命を奪われていたら一体太平洋戦争の結末はどうなっていただろうか。
勿論、どうにか別の人が現れてそれなりの事態を向かえていただろうと
思うがそれでもより大きな混乱を来たしたことが予想され、その混乱により
終戦はさらに遅れ死者数も増大し、日本の戦後はより悪くなっていたように
思えて仕方がない。

二・二六事件における、この人物への襲撃直接の責任者となった
安藤輝三大尉(当時)とは事件前に面識があり、安藤は「西郷隆盛のような
(人間の)大きな人」と評している。襲撃の際に完全に止めを刺さなかった
ことが、後の日本の歴史にこれほど大きな影響を与えることを知ったら
安藤は一体どう思うことだろうか。

歴史的な大きな仕事を成し遂げる大局観を備えた人間には必ずといって
いいほど青年期や壮年期の初期において歴史の大舞台で無名同然の群集の
一人の人間として奔走している時代があるように思う。この人物の場合は
日露戦争における駆逐隊司令としての時代の働きが将にその時期であった
だろう。晩年に訪れた人生の最大の勝負の時、しかもそれは日本の存亡に
関る大勝負だったわけだが、天皇の篤い信頼を得て命の危険も省みずに
数え切れない大小のハードルを乗り越えて日本を終戦に導いた。その判断の
基礎となった何事かの種は日露戦争時代に体験した多くの事だっただろう。

ポツダム宣言を"黙殺"という形で報道されてしまったのは一大痛恨時であったが
時局の折、弁解のしようはなかったかもしれない。後世の我々としては
コメントしようがないという意が真意であったかどうかは別として、「国内」の
報道機関でありながら"黙殺"と大々的に喧伝され、それはやがて「reject」
という解釈までされて破滅的な結末になることは容易に予想されながら
決して修正されることがないメディアの機能としての大罪と、21世紀の今に
至るまで、その「"負のスパイラル"製造機」とでも言える悪質で有害無実な
なマスコミの主要な面についてほとんど何も改善されていない点を戦慄
すべきであろうと思う。
 
この人がいなくても歴史は当然あったであろうが、この人がいなければ
"今の日本"は無かったかもしれない。そして、この人がいなかった場合の
日本は今よりも遥かに小さかったかもしれない。あるいは今よりもさらに
深刻な形骸化を免れなかったようにも思う。



 




 
 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

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2010年9月 5日 (日)

ある人間の履歴(一)

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・ 1889年4月20日 に生まれる。

・ 名前は「高貴な狼」という意味だった。

・ 少年時代 歴史や美術が得意で数学・フランス語が苦手だった。

・ 青年時代 美術大学を目指す。画風は丹念な描写に情熱を傾けたが
        独創性に乏しかった。結局、画家になることを諦め
        建築家を志すも挫折。

・ 1908年 同居していた友人の前から姿を消す。 (19歳)

・ 1913年 兵役を逃れるため移住。 (24歳)

・ 1914年 逮捕され本国に送還される。後に入営。 (25歳)

・ 1918年 戦場での功績により一級鉄十字章を授与される。 (29歳)

・ 1920年 軍をやめ党務に専念する。 (31歳)

・ 1921年7月29日 第一議長となる。この頃から"Führer" と呼ばれるようになる。

・ 1923年 政権奪取を目論んだクーデターに関与し逮捕され党も非合法化される。(34歳)

・ 1925年 党を合法政党として再出発させる。(36歳)

・ 1932年 国会議員選挙において230議席を獲得(得票率37.8%)。第一党となる。(43歳)

・ 1933年1月30日 首相となる。(44歳)
            2月  1日 議会を解散する。
            2月28日 基本的人権条項を停止し、共産党員などを法手続に拠らずに
                        逮捕できる大統領緊急令を発令させる。
            3月24日 全権委任法を可決させる。議会と大統領の権限は形骸化される
            7月  4日 自らの所属政党以外の党を禁止する。
           12月 1日 自らの所属政党と国家を不可分の存在であるとする。

・ 1934年8月 2日  大統領の死去に伴い、大統領と首相の職務と合体させる。(45歳)
      8月19日 上記について国民投票を行い89.93%の支持率を得て
                         国民に承認される

・ 1936年 国の威信を賭けてオリンピックを開催する。(47歳)

      オリンピック開催前後では穏和していた人種差別をもとにした迫害を
             国民の圧倒的な支持の基に強化し国力の増強に努める。
       同年、スペイン内戦に介入し、また非武装地帯ラインラントへ進駐する。

・ 1938年3月 オーストリアを合併する。(49歳)

・ 1939年8月23日 独ソ不可侵条約を結ぶ。(50歳)
      9月  1日 ポーランド侵攻を開始。
      9月  3日 英・仏がドイツに宣戦布告する。第二次世界大戦の開始。

・ 1940年5月 ダンケルクの戦いにおいて英仏連合軍を破る。(51歳)
      6月21日 フランス政府はドイツに休戦を申し込む。
                  降伏調印式後、パリを視察する。
      7月31日 国防軍最高司令官に就任する。戦争の最高指導者となる。
      9月27日 「日独伊三国条約」を結ぶ。

・ 1941年6月22日 ソ連に侵攻を開始する(バルバロッサ作戦)。(52歳)

・ 1942年1月20日 ヴァンゼー会議が行われる。(53歳)
      12月8日 日本、アメリカに宣戦布告する。

・ 1943年9月 イタリア王国降伏後の新政権により幽閉されていたムッソリーニを
         救出させ(グラン・サッソ襲撃)、その後にイタリア社会共和国を樹立し
         首班にさせる。(54歳)

・ 1944年6月 6日 連合軍によるノルマンディー上陸作戦。以降は劣勢に陥る。(55歳)
      7月20日 暗殺未遂事件起こる。死傷者が出たが自身は軽傷で済む。

・ 1945年3月 ブダペストの奪還を目論み作戦を実施するが失敗に終わる。(56歳)
        連合軍の侵攻が予想されるドイツ国内の生産施設を全て破壊するように
        命令を発するが(「焦土命令」)、軍需大臣シュペーアは聞き入れず
        ほぼ回避された。この頃以降、国民の前から姿を消す。

      4月16日 ソ連、ベルリン占領を目的とするベルリン作戦を発動。
      4月20日 誕生日を祝うために軍とナチス高官が総統官邸に集まる。
      4月29日 ハインリヒ・ヒムラーが英米に対して降伏を申し出たことが報道される。
      4月30日 自殺により死去。死因は拳銃・服毒・安楽死等の諸説あり。

 
 

※1 記述内容は基本的にWikipediaに寄っている。
※2 年齢については月日は考慮せず計算して表記している。
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こうして年表だけを追ってみると案外人間臭い「何か」が
確実に見えてくる。

権力掌握の為に多くの人を利用して陥れ、本人とは何の関係も
無い膨大な数の人間達の運命を悲劇的なものにしてしまったことは
疑う余地などあるわけもないが、同時にこの男もまた結構な数の
人間の保身の為に利用されたであろうことも歩みの跡から見える。

1920年後半から1930年前半の人生はまさに男子の本懐とも言える
ダイナミック性に溢れていて、最終的に何をししてしまった男なのか
知らなければ「胸の透く思い」も見ようによっては味わうことが出来、
実際当時、世代を越えて心酔した者が多かったであろうことも想像
できることもまた不都合な真実であり、ここら辺りだけを抜き出せば
スケールの差はあれ似たような軌跡を描く成功譚を持つ人間はいつの
時代にもどの国にも見出すことは可能であろう。特に1932年から
1936年の男にまつわる出来事を見れば2010年9月の今を生きる我々
日本人にとっては目障りな権力者の中に気分的に幾つかの符合を
確実に有する者を知っており背中に冷たいものを感じずにはいられない
であろう。
全ては歴史にすでに記述されており最大の不幸はこれから
やって来るのである。そして、その「不幸」は自らも笑顔でやって来る
であろうが滑稽にも我々が手招きして受け入れてしまうのである。
きちんとデータベースはこうして現存していて誰でも入手可能な社会
であるのに。何が哀しくて我々は自ら再び放棄しようとしているのであろうか

 

この男が一流の画家や建築家になっていたことが有りえなかったこと
確実であろう。数学や外国語が苦手で且つ苦手科目の勉強を
徹底的にサボったといわれる前半生において決定的である。
他人が共鳴し賞賛するようなこの世界の人知を超えた美しさを
真っ白なキャンパスに表現することは数学や化学にも通じ、
紙の設計図を3次元化するには材料力学の法則性を知り理解
することとやはり世の中の人々とセンスを共有できなくてはならない。
前準備段階の紙と鉛筆を使った演習に過ぎない学生段階で
自ら、その努力を放棄した人間が強大な権力を掌握すれば、
それは自分の狭い狭い世界を他者に押し付けることに
利用され尽くされることは自明ではないかと思える

1932年までの生き様は恐らくこの男の才能であり、結果としの惨禍を
予想するのは難しい状況であったかもしれない。しかし、その後の2年間
については暴走の種明かしは常に行われていたといえる。世界はこの
2年間を無為に過ごしてしまったといえ、『失われた2年間』と言えるのでは
なかろうか。この2年間に世界の知識人達は何をしていたのか、
感覚の優れた市井の人々は何を思って生きたであろうか。
この男を止めるか方向転換をすることが出来たとすれば恐らくは
1933年のどこかの段階であったであろうと思う。

それにしても、まるで未来の出来事が記述されているかのような
今の我々の世界の脆弱性はどうであろうか。少なくとも、この男の出現と
カオスを許した時代は人類が地球も月も火星も汚染させるだけの
存在であるとはほとんどの人間はまるで理解できるはずもなく自分達
に大した根拠無く肯定できる要素は今よりも遥かに多かったが、
今は違う。我々はどんなに理性的に物事を進めたところでほとんど
何一つ無駄なくコントロールなぞ出来はしないことを知っているし
犠牲者の数もカウントすることが出来る。簡単に全てを破壊すること
がどんな人間にも出来てしまうからこそシステムを守ることの苦労
を知り伝えていかなくてはならない。

それなのに、なぜ、またしてもいい加減だと判りきっている人間と
集団に『権力の全て』を委譲しようとしているのだろうか。

その結果はこれほど膨大且つ詳細に残っているというのに。。

因みにこの男と知名度においてほぼ全く互角である後に喜劇王と
呼ばれた同年同月の僅か4日違いで生まれたあるユダヤ人がこの男を
モデルにし、大いに皮肉った傑作超大作映画を製作していることは
よく知られているところである。奇しくも共にチョビヒゲがトレードマークで
20世紀において最も有名であった同い年の二人が出会うことはなかった。

 




 
 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

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2010年4月29日 (木)

人それぞれの「箱」の"中"と"外"

     
     

これは、事件なのか?
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なにかが起きて、周辺が騒がしくなっている。

ある日、突然自分の離婚をテレビで知った。
僕も妻の家族も誰も知らず、
その時から、報道陣が大挙し押し寄せ、
早朝、妻の実家に見知らぬ車がやってきて、
妻を連れ去ったと妻の家族は言います。

これは、事件なのか?
(略)
このリアルがない劇場の主演は妻だとしても、
僕や家族が知らない演出家や脚本家は、誰なのだろうか?
そして、その目的はなんなのだろうか?

どんな場合も苦境から逃げずに、自己と対話し、正しい道を行く。
いかなる場合も、人と心でしっかりと話す。
そして、混沌のあとにしか、調和はこない。
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[http://blog.honeyee.com/ttakashiro/archives/2010/04/29/post-168.html]
高城 剛 ブログ April 29, 2010

 

高城剛の言動についてはかなり前からちょこっとだけだがアンテナを張っていた
のだが、まさか今回のような形で彼が一般ピープルから注目を浴びようとは
夢にも思わなかった。本人もそう思っていることでろう。

しかし、若くて美しくて前途有望な女優を妻にした以上は、どんなネタであれ
自身の"全て以上のこと"がメディアに晒されることは自覚していなくてはなら
なかったであろう。皮肉にもハイパーメディアクリエイターを自称するならば
尚更の事で寧ろ嬉々としてこの一連の事態を愉しまないといけないのでは
なかろうかというのは酷であろうか。

高城 剛の言動に私がごく小さなアンテナを一本張ったのはもうかなり昔のことである。
"Windows" や "Macintosh" や "Web" という言葉や概念と、世界の人々の生活はもう
切りはなしては生きていけない世の中が来たようだと認識されるようになった頃の
さらにもう少し前だ。それは携帯電話なんて一部のお金持ちしか持っていなかった
頃でネットへのアクセスなんてのも一部のオタクか学術機関しかしないものと
(日本では)思われていた時期。といっても、それはまたほんの十数年前のことでもある。

当時の高城 剛は、時折メディアに出てきては世の中の先を少しだけ予言して
みせて楽しそうに笑みを浮かべていた。コンピューターの画面上でなんだか
原色のオモチャやキャラクターが色々と動き出すようなアニメーションを見せて
「こんなもの(アニメーション)が誰でも手軽に作れるようになる」と説明していた。

なぜ、私が彼の言動に注目したかというと、その一連の発言の「目新しくなさ」
本人の自信溢れる姿と反比例しているのが面白く新鮮さだったからだ。その予言の
ある程度の分析能力の高さと、しかしその自身が描くワールドの総体的な、汎用的な
「ワクワク感の無さ」において、個人的にはホリエモンと非常に似たもの
当時、強烈に感じた。勿論ホリエモンの登場はまだまだ先の"未来の"事である。
(ホリエモンはやがて"自分だけ"が自由自在に使える四次元ポケットを持って
十数年後の未来の日本に現れる)

高城 剛はいつも決まって"信じられない面白いツール"がすぐ未来の世界では
溢れていて、それは誰にでも利用でき誰もがクリエイターになれるかのような
言動をしていたように思う。

そして私は彼の笑顔を見るたびに思ったものだ。

かつてなかったバーチャルなツールが世の中に溢れかえることは間違いないであろう。
しかし世の中の先を少しだけ読む自信のある者ならばばそんなことはもう判っている。
そしてそれらのツールを得たからといってクリエイターになれることとは全く別である。

恐らく最も重要なことで懸念されることは

氾濫する目新しいツールが"楽しい物"であるとは限らず、その価値判断はあくまでも
どこまでも個人個人に委ねられるが人々の多くはその判断を自分で下せない
であろう

ということである。ツールの数の増加と人の感じるエクスタシーは比例関係にあるとは
全然言えないことはとっくの昔に判りきったことであるはずなのに、最先端を行く者を
恐らくは自認しているのにも関らずなぜかいつも逆のことを言う点においてやはり、
後の世界に出現するホリエモンと似ている。

氏にアンテナを張ってしばらくしたころ、Windows や Macの爆発的普及によりパソコン
というものが急速に人々の身近となりいよいよ明確に世の中を席巻しだした頃、
また高城はメディアにちょこちょこと出てくるようになり私もテレビで見かけた時は
ウォッチしていた。

自分の言った通りの世の中になったでしょう。
と相変わらず自信に満ち溢れていた。

そして、某日の某番組内において高城はカメラとカメラマン(及び番組の取材同行者)に
向かって自分の先見性の源泉なるものを見せようとやはり自信たっぷりに言った。

それが一体何なのか

私には瞬時に判断できた。私(視聴者)だけでなくそこにいた同行者全員も何となく判った
オーラが流れた。高城以外はそのオーラを察知したであろう。

でもまさか高城はそんな単純なことを「秘密」といっているのでは
ないだろう。と私は番組を見続けた。「まさか、そんな単純なことではないだろうが
彼のことだから残念ながらきっとそうなのであろう」と思いながら。

答えを知ってしまった大人が子供に優しく諭すように同行者が聞いた。
「それは一体何ですか?」
「ではお見せしましょう」高城は自信たっぷりに案内した。

果たしてその通り、全くそのままであった。

それは

ある側の先頭を行く者は逆の方向から種を仕込んでそのことを
じっと黙っている。
という商売の基本中の基本であるというただそれだけのことであった。

「どうです、驚いたでしょう」という満面の笑みを浮かべた高城が
私は微笑ましく、世の中は平和なのだなあと思った。そして、これが
ハイパーメディアクリエイターの源泉で秘密であるならば、
自分もいい線いけるかもと当時思い上がったものである。

高城もホリエモンも自分が世の中の先を行き、人々を先導する者であると
少しばかり自認していることは間違いないだろう。そして、その自身の発言の
ネタの在りかの安さと底の浅さには時に驚くほどである。

彼等は彼等がそれぞれ得たツール"だけ"の操作においては多くの人間が
真似の出来ない域の達人なのかもしれないが、そのツールは『人生』という
全世界の人々が参加してほぼ全員が複雑怪奇に繋がっている世界最高峰の
オンラインゲームにおいてはそれほど役には立たないということを実は
余り判っていないようだ。そしてその史上最大のオンラインゲームはここ
10数年でかつての人類の歴史にないほどに急速に難易度を上げているということも。

その難易度の急速な上昇と日夜ひっそりと確実に行われる数え切れない
バージョンアップのおかげで彼等は登場して活躍出来た(出来ている)というのに。

"株"というものは注目度が高まれば買われ、その値段は自ずと上がるものだし、

"コンピューター"というものはコマンド(命令)を入力すればエラーを含めた
何かしらの答えが出る。

どれだけ速度が向上して規模が拡大してもそれだけの物にしか過ぎない。

それだけの物にしか過ぎないということを隠し
何でも出来ると思わせるのが商売であるが、
それは、どこまでもただ単に商売であるに過ぎない

彼等はそのことを一番判っているはずなのに時折忘れてしまうので
あろうか。あるいは本当に何でも出来ると思ってしまったのであろうか。

専門用語も禄に知らないであろう元(?)奥様の方が彼等よりもよほど
"ルール"を熟知して『ゲーム』を楽しんでいるように見える。

彼等は自分達の反則がバレていないと思うタイプの人間であろうし、
時に平気で隠すであろうし、それなのに他人の反則には厳しくどこまでも
抗議"しそうである"ということが今までもこれからもマスメディアと世の
人々のジャッジが彼等に対しては常に厳しい側に振れることの理由である
ことを恐らくはよく判っていないのだろう。

"夫婦"という"人生"と同様かそれ以上に難解且つ長大な「ゲーム」に
おいて、これらの無自覚は致命的となるであろうことは想像に難くない(笑)。



 
 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

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2010年4月 3日 (土)

保守本流の本命政治家の一人であろう。

  
 
 

自民党の与謝野氏、離党届を提出 園田氏も週明けに
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 自民党の与謝野馨元財務相が3日昼、東京都内の党本部で谷垣禎一総裁に会い、
離党届を提出した。与謝野氏は、園田博之元官房副長官とともに離党し、
新党を結成する方向で調整していた。与謝野氏によると、園田氏は週明けに
離党届を提出するという。

 与謝野氏は先月の月刊誌への寄稿で、谷垣氏ら党執行部に
「本気で政権を倒す気概が見えない」と刷新を要求。それができなければ
「新党を含め新しい道を歩む決断をせざるを得ない」との考えを表明していた。
だが、谷垣氏は2日までの全議員懇談会で、いまの執行部で夏の参院選に
臨む意向を示している。
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[http://news.goo.ne.jp/article/asahi/politics/K2010040301390.html]
朝日新聞2010年4月3日(土)12:31

与謝野馨はここ数年来の中では、政治家としてはほとんど唯一といっていいくらい
「肯定的」に動向を注視してきた人物である。
東京1区における数回に渡る民主党の海江田万里との激しい選挙戦も
最早、絶滅危惧種といってもいい『日本の政治家』の一人としての好エピソード
として評価できる。後年この二人の闘いは"数少ないまともな選挙戦として"さらに
評価されていくことは間違いないであろう。

wikiによれば、同氏が2000年4月の衆議院議員総選挙で小選挙区でライバルの
海江田万里に破れ民主党の都市部での躍進により比例代表名簿による
復活当選すら果たせなかったことについて元首相の小泉純一郎は
「落選していなければ自分ではなく与謝野さんが総理になっていた」と述べた
というが、奇しくも私はかねがね自民党がもっとしっかりしていれば与謝野馨は
今頃は総理大臣の座について良くも悪くも骨太な政策を次々と出して日本の政治は
今よりも遥かに面白くなっていたことであろうと思ってきた。民主党も社民党も昔ながらの
適当な批判や野次を飛ばしていればそれなりの支持を得て今のように正体がばれずに
万年野党として楽しく甘い汁を吸えていたことであろう。

与謝野馨の言動や行動は実質的な内容について思想信条的には
当然の如く批判される面は多々あるであろうが、政治家としてのそれは
充分に評価されて良い。

今回の離党のタイミングと手順も充分に評価できる。まず月刊誌において
新党結成の意を述べた論文を寄稿し(文藝春秋4月号)世の反応を確認し、
現総裁である谷垣禎一に党執行部の刷新を要求して恐らくは直接に談判もし
現在の自民党の病巣をよく見極めてからの行動であろう。当然ではあるが
この行動は全て、自己の行動を正当化するための表面的なものに過ぎない
と断罪することも可能であるが、出来ない政治家にはこのような手順を踏んだ
行動は全く出来ないものなのだ。
鳩山邦夫の情けない言動の山と日和見の観が
否めないぶれの多い行動を見よ(お兄さんも同様なので遺伝的なものともとれる)。

与謝野馨を手放しで賞賛する気は毛頭無いが、社会経験の乏しい人間的な
厚みもまるでない人間が貯蓄と私的欲望を満たすためか、或いは税金に集る
厚顔無恥な集団のエージェントとしての役割しか果たさなくなった人間ばかり
が国会を占拠してしまった現在の異常事態の中では氏のような『政治家』は
貴重である。

与謝野新党は人選さえ誤らなければ数人であっても今の自民党、民主党、
他の利権を貪るだけの某党、某某党などを圧倒し政権を奪取することは全く可能である

支持する、支持しないはおいておいて与謝野馨は日本の政治家として
充分に及第点であるから、日本人として日本をこれ以上貶めたくなければ
氏の言動にはそれなりに注目してみよう。そして同氏に論戦を挑み同氏を
圧倒する人間がいたならばその人もまた注目に値するであとう。

日本をこれ以上つまらない住みにくい国にしたくなければ政治は氏の行動
を重要な楔として、その渦に果敢に主体的に、所属する組織の意向や威光
なぞ置いておいて進み出てくる人間達に注目していくべきだ。

与謝野馨に政策・政治論争を一切挑まずにスキャンダルや中傷誹謗でしか
対応できない政治家、政党、マスコミ関係者、有名人もまたよくその言動と
人を見るべし。新党結成を阻む人間達も同様である。

念を押すが与謝野馨を無批判で賞賛しているのではない。与謝野馨という
ほぼ絶滅しかけている「日本の政治家」の一人はきっと日本の政治を少なくとも
今の民主党政権の窒息状態の政治よりは遥かに面白くしてくれるだろう
という強い期待が持てるということだ。

『政治』とは、すなわち、"明日"が"今日"よりは期待が持てることなのであり
また希望が持てることなのである。民主党の諸氏はその国民の期待と希望を
大きく踏みにじったのだから速やかに退陣し国民の信を再度問え。
「日本の国民」よ怒れ

 

与謝野馨に総理大臣をやらせてみたい。
与謝野馨の政策を聞いてみたい。
与謝野馨の政策の矛盾をつき、論戦を挑み、
思想信条を問わず自分の政策こそ100年先、200年先まで
日本を繁栄に導くという自信と実績のある『政治家
いでよ!

現首相の弟さんにはほとんど何も期待しませんので(お兄さんにも)
どうぞ大人しくしていてください。『日本』にはもう道草をくっている時間も
将来のビジョンが無い無能な人とも遊んでいる暇はないのです。 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

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2009年4月23日 (木)

積り積った『何か』

   

草彅剛のことを書こうと思い止めておこうと
思ったがやっぱり書いておく。

本日4月23日木曜日未明の自宅付近の公園で酔っ払って
全裸で騒ぎ逮捕。

『全裸』というところが衝撃だった。

スッポンポンで捕まったこと自体が衝撃だったのではなく
"草彅剛"という一般人から見れば十分巨大なブランドを
背負って立つまさに本人がこの行動の及ぼす影響力を
「全く考えていない」または
「よくよく考えて」の"どちらかとしか思えない"
ことに勝手に衝撃を受けてしまった。

だから容易に想像出来るであろう想像を絶する影響(^^;)
を思えば「確信犯」ではなかろうかと思ったがニュースの
報道からは衝動的な行動(=何も考えていない)に感じられ
逆に何だかホッとした。

しかしたとえ衝動的とはいえその奇異な行動にはそれなりの
積り積った『何か』はヒシヒシと感じられる。

「確信犯ではないか」と感じたのはかなり前から何となく
ど素人の目で見てもSMAPの中で孤立している感があったからだ。

一見それぞれが独自の方向に自在にベクトルを発し続ける
ように見えるメンバーの中で何となく感じる彼だけへの"何か"。
そして、その"何か"を助長・増幅させてしまう草彅本人の
時折見せる不審や孤立を招きかねない発言と行動。。

また、リーダーの中居曰く
「慎吾を嫌いな奴はいないと思う」
という発言のままに香取慎吾一人は彼に、その"何か"を
向けることなく逆にさりげなくフォローしているという構図。
勿論単純にメンバー中で最年少の香取とその次に若い草彅
という立場的な共感関係に過ぎないだけであるかもしれないが。

逮捕時に発したという絶叫
シンゴー
シンゴー
という言葉はど素人的に見てここ最近感じてきSMAPという組織の構図を
余りにも鮮やかに裏付けるもののように思えて
哀しい孤独な叫びのように思えた。

芸能人であり有名人気グループの一員であり
徹底的に己自身が商品であり続ける芸能界という職場。
しかしそれらよりも先に彼らも一個の人間である。

一個の人間であるということは徹底的に後回しにして
ひたすら商品として扱われ且つ自分でもそれで良しと
して生きる世界。

人気があるということを越えて芸能人・タレントと
呼ばれ蓄財し知名度を上げそこから政界・財界へのキナ臭い
ステップアップと癒着を続け日本社会の基本構造に深刻な
侵食を開始してから久しい芸能界。

今回の騒動はそのいびつな構造に浸りきってしまった
今の日本社会の暗闇を覗く綻びを見せているようにも思える。

その底知れない闇を少なからず知っているであろう
最前線で行き続ける30過ぎの人気グループの一員の男の
突発的な行動の裏には闇の周辺を良くも悪くも長年
周回してきたことによる鬱屈も溜まってきたであろう
ことを今回の騒動は物語っている。

しかしそれでも尚、芸能界という世界は蜥蜴の尻尾切りの
ように個人の行動の範疇で終わらせてしまうのだろうなきっと。

草彅剛を演じ続けて、今は拘留中であろうその人は
今後の活動がどうなろうとも少なくともしばらくは
社会の中の一個人であるということを考えて欲しいところだ。
自分自身の一度しかない人生の為にも。

他のメンバーはエンタティナーとして一緒に活動してきた
自分達の関係が全くの絵空事ではないことを社会に向けて
見せる少なからずの義務と責任があるのではなかろうか。
例え本当に何もかも全てが徹底的に絵空事であったとしても。

何てど素人の自分が書かなくてもそれなりにやるのだろう。
SMAPだもんな。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 

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